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創世記

信仰によって

創世記4章

人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。(創世記3:20)

私はエバという名前が大好きです。その名前は「生きる」という意味です。

たぶん、神様がエバの子孫を通して救い主が来ると約束された後、アダムはエバにその名前を与えたのでしょう。つまり、「あなたを通して救い主が来て、すべての人々が生きるようになる」という意味です。

それは本当に素敵な名前だと思います。

そして、創世記4章では、私たちはカインとアベルの話を読みます。

その話を読んで、一つの質問が私の頭に浮かびます。どうして神様はアベルのささげものを受け入れたのに、カインのささげものを拒絶されたのでしょうか。

ある聖書学者の意見によれば、そのささげものは罪のためだったので、動物をささげなくてはいけなかったのだそうです。

他の学者の意見によれば、カインは最も良いものをささげていなかったのだそうです。

その二つの意見が正しいかどうか分かりませんが、ヘブル人への手紙の著者によれば、もう一つの理由がありました。

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいきにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。

神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかしてくださったからです。(ヘブル人書11:4)

その著者によれば、アベルは信仰によって神様にいけにえをささげたのです。けれども、カインはそうしなかったようです。

もしかすると、カインにとって、そのささげものは意味のない儀式だったのかもしれません。

彼は、「どうして私の最上のものをささげなくてはならないのだろうか。どうして動物をささげなくてはならないのだろうか」と考えていたのかもしれません。

カインが具体的に何を考えていたのかは分かりませんが、カインの態度は神様を喜ばせるものではなかったようです。

神様が受け入れなかったささげものを、私もささげたことがあるだろうか?正直に言うと、什一献金をささげるとき、私が税金を払っているように感じることもありました。

時には、本当にささげたくないけれど、しなくてはならないと思うときもあります。献金をささげるのは痛みを伴うこともありますが、それでも義務だからと考えたこともあります。

しかし、それは信仰によってささげる態度ではありません。パウロはこう言いました。

一人一人、いやいやからでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント 9:7)

正直に言うと、私にとってその言葉は難しいです。特に貯金があまりないとき、神様にささげるのは非常に難しいと感じます。だから時々、喜びをもってささげるのではなく、むしろ渋々ささげてしまうことがあります。

自分自身に問いかけなければならないのは、「どうして私はささげているのだろうか。ささげなくてはならないと思うからなのか。それとも、心からささげたいと思っているのだろうか」ということです。

とはいえ、これは献金だけの話ではありません。

私のお祈りはどうでしょうか。神様が受け入れてくださらない祈りをささげている時があるでしょうか。

時々、食事のために祈るとき、私はただ言葉を口にしているだけです。そのような時、私は本当に祈っているわけではありません。

また、時々教会で祈るとき、私の心がさまよっていることがあります。それも、信仰による祈りとは言えません。

神様、私を赦してください。カインのような態度を取りたくありません。習慣的な祈りだけはしたくありません。献金を喜んでささげたいです。

アベルのような心が欲しいです。これからは、何をささげても、何をするにしても、信仰によって、愛に溢れた心から行いたいです。

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