認めましょう。私たち全員、時々、聖書の中のある箇所を読み飛ばすことがあるでしょう。
特に、「誰々が誰々を生んだ」という系図の箇所は、よく飛ばしがちです。正直に言うと、私もそうすることがあります。
とはいえ、そのような箇所を読むことで、私たちは興味深い事実を学ぶことができるかもしれません。
例えば、メトシェラのことです。彼はこの世界の歴史上、最も長生きした人間でした。彼はいつ亡くなったのでしょうか。計算すると、メトシェラは大洪水が起こった年に亡くなったことになります。
それでも、私が知りたいのは、メトシェラが大洪水の前に亡くなったのか、それとも大洪水の最中に亡くなったのかということです。
ノアはメトシェラの孫でした。ノアとその曾祖父エノクは神様と共に歩んでいたと聖書に書かれています。けれども、メトシェラとその息子レメクはどうだったのでしょうか。
レメクは大洪水の5年前に亡くなっていましたが、メトシェラには箱舟に入る機会があったかもしれません。
ノアが箱舟を作っている間に、メトシェラはその作業を手伝っていたのでしょうか。それとも、「ノアは馬鹿だ」と考えていたのでしょうか。
それらは興味深い質問ですが、その答えは明確ではありません。もしメトシェラとレメクが神様と共に歩んでいたなら、それが聖書に記されているはずですが、何も書かれていません。
一方で、エノクとノアは神様と共に歩んでいたと聖書に記されています。それはどういう意味なのでしょうか。
おそらく、神様と共に歩むことの一面は、彼らが神様の臨在を常に意識していたということです。
もちろん、彼らが一日中ずっと神様のことを考えていたわけではありません。それは不可能でしょう。毎日、仕事をしたり、友達と遊んだり、さまざまな活動があったはずです。
けれども、例えば家にいるとき、私は妻と常に話しているわけではありませんが、妻がどこにいて何をしているのかはだいたい分かっています。だから、妻と話したいときには、いつでも話すことができます。
神様との関係も同じです。私はいつも祈っているわけではありませんが、神様の臨在を意識し、神様が何をなさっているのかを見ることができるので、神様と頻繁に話をします。
私は一日中祈っています。時には些細なことについて祈ります。「やれやれ。神様、その生徒はかなり大変でした。」
もっと重大なことについて祈るときもあります。「神様、妻と喧嘩してしまいました。どうしたらいいでしょうか。」
しかし正直に言うと、私にとって神様がなさっていることに気づくのは難しいことです。
時々私は自分がしていることにあまりにも集中しすぎて、神様と協力することを拒んでしまうことがあります。
例えば、職場で昼食をとるとき、私はよく本を読みます。けれども、時々誰かが部屋に入ってきて、私に話しかけることがあります。
その際、きちんと本を閉じて相手と話すこともありますが、時には「はい、はい、はい、そうですか」と返事をして、すぐに本に戻ってしまうこともあります。
しかし、その後で「神様からの機会を逃してしまったなぁ」と思うのです。
多くのクリスチャンは朝に聖書を読み、祈りますが、その後「じゃあね、神様。また後でね」という態度を取ることがあります。そして、その日の残りの時間は神様のことを全く考えないのです。
けれども、もし私たちがそのような態度を取るなら、神様が私たちの中で何をしておられるのか、また神様が他の人々の中で何をしておられるのかに気づくことはないでしょう。
私はエノクとノアのようになりたいのです。周りの人々が私を見たときに、「あの人は神とともに歩んでいる」と言ってほしいのです。
神様、あなたの臨在にもっと気づきたいです。あなたがこの世界で何をしておられるのかをもっと知りたいです。私のスケジュールが中断されるとしても、私はあなたと協力したいです。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン
