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見ておられる神様、聞いておられる神様

「神様はあなたが何をしているか見ておられるよ。神様は知っておられるよ。神様から隠れることはできません。」

この言葉を聞くと、少し恐怖を感じるかもしれません。まるで神様が天国で罪を犯す者を探し、稲妻で罰する存在のように感じられることがあります。

しかし、創世記16章において、神様はそのような姿ではなく、ご自身を違った形で示されました。

ハガルは大きな失敗をしました。サラが赤ちゃんを授かることができなかったため、家族の名を保つためにアブラハムにハガルを与えました。そしてハガルは妊娠しました。けれども妊娠した後、ハガルはサラを軽蔑しました。

ハガルは、「あなたは30年も40年も妊娠できなかった。けれど、私は1年で妊娠できた。」というような言葉でサラを侮辱したのでしょう。

その結果、サラはハガルをいじめました。

「いじめ」とはどのような意味だったのでしょうか。暴力をふるったのかもしれませんし、ひどい言葉を浴びせたのかもしれません。

いずれにせよ、ハガルはその状況に耐えることができず、すぐに逃げ出しました。

サラの行動は間違っていましたが、ハガルにも過ちがありました。彼女自身の態度と行動によって、事態が悪化したのです。

それでも、神様がハガルに向き合われた時、彼女を責めることはありませんでした。彼女の態度や行動を理由に罰することもありませんでした。また、「あなたの態度や行動は当然だ」とも言いませんでした。

むしろ、神様はハガルに懸念を示され、「どこから来たのですか?どこへ向かっているのですか?」と尋ねられました。

ハガルがサラから逃げていると答えると、神様は彼女に一部始終を説明するよう求めることも、罰を与えたり、告白を強要することもありませんでした。

むしろ、神様はこう言われました。

「サラのもとに戻りなさい。そして、サラのもとで身を低くしなさい。あなたも間違いを犯しました。そのため、謝罪しなさい。そうすれば、全てが解決されます。」

さらに、神様はハガルにこう言われました。

見なさい。あなたは身ごもっており、男の子を産もうとしています。その子をイシュマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたからです。(創世記16:9-11)

つまり、「あなたの苦しみを私はよく知っています。確かにあなた自身の行動がその苦しみをもたらしました。しかし、あなたが息子を見る時、いつでも思い出しなさい。私はあなたの声を聞く神です。」

(イシュマエルの名前は「神は聞かれる」という意味です。)

ハガルの答えは?

そこで、彼女は自分に語りかけられた主の名を「あなたはエルロイ。」と呼びました。

それは「ご覧になる方の後ろを私が見て、なおもここにいるとは。」と彼女が言ったからです。(創世記16:13)

ハガルにとって、神様が彼女を見ておられること、また神様が彼女の声を聞いておられることは、恐れるべきことではありませんでした。それは心配事ではなく、むしろ希望となりました。

彼女が学んだのは、この見て聞いてくださる神様に従うならば、哀れみを見つけることができるということです。

あなたは失敗したことがあるかもしれません。悪い選択をしてしまい、あなたの人生が混乱してしまったこともあるかもしれません。

しかし、神様があなたを見ておられることを忘れないでください。

神様があなたの声を聞いておられることを心に留めておいてください。

そして、ハガルに哀れみを与えられたように、神様はあなたにも哀れみを与えてくださいます。

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創世記

普通かもしれないけど、正しいでしょうか。

最近、中年の生徒と娘さんの彼について話しました。生徒が彼に初めて会った時、様々なことについて話しましたが、突然彼がこう言いました。「あなたの娘さんと一緒に海外旅行に行きます。」

生徒の答えは、「私はびっくりしましたが、許しました」というものでした。おそらく、その生徒は自分を良い父親だと思ったのかもしれません。

そのカップルが別々の部屋に泊まるかもしれませんが、そうしないとしても驚くことはないでしょう。私たちの文化では、カップルが結婚する前に一緒に過ごすことはごく普通のことです。

最近、私の姉も別の話を聞きました。16歳の娘さんの誕生日パーティーについて話した時、あるお母さんがこう言いました。「ウォッカを取り上げましたが、ラム酒は許しました。」

そのお母さんは、十代の子どもがアルコールを飲むことを当たり前だと思ったのかもしれません。

私たちの文化では、多くのことが普通に見えるかもしれません。しかし、重要なのは、これが普通であるかではなく、これが正しいことであるかどうかということです。

アブラハムも似たような問題に直面しました。神様が子どもを与えることを約束されましたが、10~20年待っても子どもは与えられませんでした。

さらに、サラはすでに年をとっており、子どもを授かることができない状況でした。

その文化では、家族の名が途絶えることは非常に深刻な問題でした。家族の名がなくなることは最悪の事態だと考えられていたでしょう。

また、その時代の文化では、妻が子どもを産めない場合、女奴隷を主人に与えることが一般的でした。主人が女奴隷と関係を持ち、赤ちゃんが生まれ、その赤ちゃんが相続人となるのです。

そのため、サラはその文化の習慣に従いました。それは当時の社会では普通のことでした。けれども、それが正しかったのでしょうか。答えは「いいえ」です。

神様はサラが子どもを産むことを約束されていましたが、彼らはその約束を信じませんでした。神様のタイミングを待たず、文化に従い、自分たちで神様の約束を成就させようとしました。

その結果、赤ちゃんは生まれました。

ところが、予想しなかった問題が発生しました。女奴隷ハガルが妊娠していることが分かった時、彼女はサラを軽蔑しました。

サラは怒り、アブラハムを責めてこう言いました。「これはあなたのせいです。」

けれども、それは元々サラ自身の提案だったのです。

さらに、この決断がもたらしたもう一つの予想外の結果として、ハガルの子孫(イスラム教徒)とサラの子孫(ユダヤ人)の間に長きにわたる戦争の歴史が生まれました。

しかし、神様の言葉から離れて文化に従うと、そのようなことが起こるのです。

文化は移り変わります。100年前に普通だったことは、今では普通ではないでしょう。同様に、100年後には、今普通だと思われていることももはや普通ではなくなるでしょう。

その一方、神様の道と言葉は決して変わることがありません。

そして、神様の道と言葉から離れると、私たちは自らを危険にさらしてしまいます。望まない妊娠、中絶、アルコール中毒、離婚、壊れた家族など、こうした例を私はいくらでも挙げることができます。

だからこそ、私たちは選択しなければなりません。文化に従うのか、それとも神様に従うのか。

時には矛盾がないこともありますが、もし矛盾があった場合、私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。

ヨシュアがイスラエル人を約束の地に導いた時、こう言いました。

今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実を持って主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こうおよびエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。

もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、今日選びなさい。

しかし、私と私の家とは、主に仕えます。(ヨシュア記24:14-15)

イスラエル人たちはエジプトで先祖たちが従っていた文化の習慣を続けるか、それとも捨てるかを決めなければなりませんでした。文化に従うのか、神様に従うのかを選択しなければならなかったのです。

私たちも同じようにその選択をしなければなりません。

私たちもヨシュアの言葉を宣言しましょう。「私と私の家とは、主に仕えます。」

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神様を信じる?

時々、神様を信じることは難しいと感じます。私たちは神様の約束をよく知っており、神様が何を言われたかも理解しています。それでも、時には私たちの状況によって、神様に従うことが困難になることがあります。

例えば、皆が知っているように、日本にはクリスチャンの人口が非常に少ないです。1%以下です。そして、クリスチャンの女性は男性よりも圧倒的に多いです。

男性にとっては良い状況かもしれませんが、女性にとっては困難を伴う現実となります。

聖書にはクリスチャン同士で結婚するべきだと書かれていることは知っています。しかし、信仰を持つ良い伴侶を見つけるのが難しく、神様がふさわしい人を備えてくださると信じることが難しい場合があります。

特に待つ期間が長くなるほど、信じ続けることがさらに難しくなります。そのため、多くの人が諦めて、クリスチャンではない人と結婚する選択をします。

残念ながら、それは結婚の問題を解決する一方で、結婚生活に新たな問題をもたらすことがよくあります。つまり、キリストを信じない人と共に生活することで、様々なプレッシャーや葛藤が生じるのです。

アブラハムも似たような選択に直面しました。それは、神様を信じるかどうかという問題でした。

神様が彼に約束されたのは、彼が故郷を離れ、神様に従えば、大いなる国民とされるというものでした。けれども、アブラハムはすでに七十代で、まだ子どもがいませんでした。

それでも、神様は彼のもとに再び現れ、「あなたの受ける報いは非常に大きい」と語られたのです。

アブラハムの答えはこうでした。

「どうしてそんなことを言えるでしょうか。私はまだ子どもがいませんし、年老いています。私の下僕が私の財産を全て受け継ぐことになります。どうして私の報いが大きいと言えるのでしょうか。あなたが約束された祝福はどこにあるのでしょうか。」

神様の答えはこうでした。

「その人があなたの跡を継ぐことはありません。天を見上げなさい。もし星を数えられるなら、それを数えなさい。あなたの子孫はこのようになるのです。」

その約束を信じるのは難しかったと思います。

「私は子どもがいませんし、妻も年を取っています。それなのに、私の子孫が星のようになるのですか。」と思ったかもしれません。

それでも、アブラハムは決断をしました。その決断とは?

神様を信じること。

アブラハムは完璧な人ではありませんでした。多くの場合に失敗しましたし、神様を信頼しないこともありました。

例えば、パロの話(創世記12章)やゲラルの王の話(創世記20章)はその例です。

とはいえ、この時とこの場所で彼はこう決めました。「神様を信じます。」

だから、神様は喜ばれました。

神様が何よりも望んでいるのは、私たちが神様に信頼することです。

アダムとエバに対しても、神様は彼らの信頼を望んでおられました。

「どの木からでも自由に食べてよい。でも、この木からは食べてはならない。私を信頼しなさい。私はあなたにとって最善を望んでいるのだから。」

しかし、アダムとエバは神様を信頼せず、神様との関係は壊れてしまいました。

ヘブル人への手紙11:6にはこのように書かれています:

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づくものは、神がおられることと、神を求めるものには報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

私たちの多くは、神様がおられることを信じています。

けれども、本当に神様が私たちにとって最善を望んでおられることを信じているでしょうか。神様に信頼すれば、報いてくださる方であることを本当に信じているでしょうか。

それは最も重要な問いかけです。

クリスチャンではない人と結婚する人にとって、その答えは「信じていない」ということになります。

誤解しないでください。クリスチャンではない人と結婚したからと言って、私はあなたを責めているわけではありません。孤独は辛いものです。長く待つほど希望が薄れていき、信じ続けることがますます難しくなるのです。

アブラハムにとっても、長く待つことは困難でした。創世記16章では、アブラハムとサラは待ちきれず、大きな過ちを犯してしまいました。

とはいえ、神様との親しい関係を望むなら、私たちの心の中で決断をする必要があります。それはつまり、神様を信じること、そして神様に信頼することです。

あなたは過ちを犯したことがあるかもしれません。神様に信頼せず、間違った選択をしたことがあるかもしれません。

それでも、がっかりしないでください。

アブラハムも過ちを犯しました。彼もある時、神様に信頼せず、誤った選択をしました。

しかし、神様はアブラハムを見捨てませんでした。

そして、あなたのことも決して見捨てません。

もし神様との関係を回復したいのなら、もう一度神様のもとに行き、このような祈りを捧げてください。

神様、私は失敗しました。赦してください。しかし、今日あなたの前に来て、私が言いたいのは、あなたを信じるということです。あなたに信頼する。

そうすれば、神様があなたを赦してくださいます。

アブラハムは失敗をしたにもかかわらず、「あなたを信じる」と言ったとき、神様はその信仰を彼の義と認められました。

同じように、もしあなたが心から「あなたを信じる」と言えば、神様はその信仰をあなたの義と認めてくださいます。

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成功と祝福はどこから来るか

私はアブラハムを軍事戦略家としてはあまり考えませんが、この箇所では、彼の行動に驚かされます。

ロトとその家族を救い出すために、アブラハムは318人の手勢で、5人の王とその軍隊を相手に戦い、打ち破りました。

その時、プライドを持つのは容易だったでしょう。「私は偉大だ。私は優れたリーダーだ。」と思ってもおかしくありません。

しかし、アブラハムはそうしませんでした。むしろ、神の祭司メルキゼデクが「この勝利は主から来た」と言った時、アブラハムはそれに賛同しました。

そして、アブラハムはメルキゼデクにすべてのものの十分の一を献げました。

さらに、アブラハムはリーダーであったにもかかわらず、略奪を全く行わず、一緒に戦った者たちにその分け前を与え、残りをソドムの王と彼に組した王たちに戻しました。

どうしてでしょうか。それは本当の祝福がどこから来るかを彼が覚えていたからです。

また、アブラハムは不敬虔な人々から何も受け取りたくなかったのです。彼は23節でこう言いました。

「糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」

私たちはどれほどプライドの罠に陥りやすいでしょうか。自分の才能や努力だけで成功したと思い始め、神様がその才能や力を与えてくださったことを忘れます。

それを忘れると、神様を忘れることも容易になり、神様から離れて、ほかのものから祝福を求め始めます。例えば、お金やこの世の物から祝福を得ようとするようになります。

イスラエル人も約束の地に入った後、同じことが起こりました。ヨシュアの世代の人々が亡くなると、イスラエル人は神様が自分たちをその地に導いてくださったことを忘れました。

そして、さまざまな神々から祝福を求め、神様を脇に置いてしまいました。つまり、彼らは神様をあまり大切にしなくなったのです。

多くの場合、彼らは神様を捨てたわけではありませんが、他のものを求め、神様を脇に置いていました。

私たちも同じようなことをしてしまうのではないでしょうか。神様を捨てるわけではありませんが、神様を脇に置くことがあります。

私たちの人生がうまくいくとき、どうやってその罠を避けることができるでしょうか。

一つ目は、神様がどなたであるかを覚えておくことです。つまり、神様は天と地を創造された方、いと高き神です。

ヘブル語の別の解釈では、「神様は天と地の所有者」とも表現されています。

つまり、神様はすべてを創られたので、すべては神様のものです。そして、私たちの持ち物もすべて神様から来るものです。

第一コリント4:7にはこう書かれています。

いったい誰が、あなたをすぐれた者と認めるのですか。

あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。

もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか。

エレミヤ9:23-24では、神様がこう言われました。

知恵あるものは自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富むものは自分の富を誇るな。

誇るものは、ただ、これを誇れ。悟りを得て、私を知っている事を。

私は主であって、地に恵みと公儀と正義を行うものであり、私がこれらの事を喜ぶからだ。

私たち自身ではなく主にあって誇るならば、私たちは祝福と成功がどこから来るかを覚えておくことができます。

二つ目は、受けた祝福に対して神様に感謝することです。

メルキゼデクは言葉で感謝を捧げ、アブラハムは十一献金によって感謝を捧げました。

時々クリスチャンの中には「十一献金を捧げなくてもいい。それは旧約聖書の律法だけで、私たちはもうその律法に縛られていない」と言う人がいます。

それは事実です。しかし、律法が与えられる前に、モーセではなくアブラハムが、初めて十一献金を捧げました。そしてそれは、神様に感謝するしるしとして捧げたものでした。

私たちもそれと同じです。律法を守るためではなく、義務としてでもなく、献金を通して神様に感謝を表し、私たちが祝福をどこから受けているかを認めます。

その結果、プライドの罠を避けることができるのです。

神様、祝福と成功がどこから来るのかを、いつも覚えていられるようにしてください。

私の才能や努力だけではないことを認めます。すべてがあなたから来ることを認めます。

感謝の心を常に持てるように助けてください。私が他のものを求めるあまり、あなたを脇に置かないようにしてください。

私の人生の中心にあなたを置くことができますように。アーメン。

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喧嘩する価値がない

時々、私は妻と喧嘩します。一般的に小さなことについて喧嘩をしますが、時々、議論が少し激しくなることもあります。

振り返ってみて私が考えるのは、「どうして私はそんなに頑固になったのか」ということです。

(時には「どうして妻がそんなに頑固なのか」と思うこともありますが、それは妻には言わないでください。)

それでも多くの場合、私は自分のプライドと戦い、妻に譲りたくないと思っています。

例えば、私たちにはベビーカーがあり、ハンドルの上にフックがついているストラップがあります。私たちは娘と出かけるとき、普段そのフックにかばんをかけます。かばんをかけていない場合、注意しないと、そのストラップが自然にハンドルの横に落ちてしまいます。

ある日、妻が苛立っていました。私がベビーカーを使った際、ストラップが落ちていたのに直さなかったからです。

ある日、私の妻がいらいらしていました。それは、私がベビーカーを使ったときにストラップが落ちてしまい、直さなかったからです。

(皆さんが私を責める前に言っておきたいのですが、それまで妻からは何も言われていませんでした。ただ、その日だけ「なぜ全然直さないの?」と言われたのです。)

私にとって、その問題はとても些細なことでした。ストラップが落ちたところで、二秒で直せますし、誰が気にするでしょう?

私の妻です。

私が思ったのは、「直すのに二秒かかるだけだし、そんなに気になるなら、妻自身が直したほうがいいのに」ということです。

けれども、神様は静かな声でこう言われました。「たった二秒で済むのなら、なぜそんなに頑固になるのか?直しなさい。」

「はい、はい。わかりました。」

(ため息)

それから、できるだけそのストラップをきちんと直すようにしています。しかし、こんな小さな喧嘩でも、プライドは本当に厄介なものになります。

アブラハムとロトの争いは、さらに大変なものでした。その地には、彼らが一緒に住むための十分な資源がありませんでした。彼らの持ち物が多すぎたからです。そのため、アブラハムの牧者たちとロトの牧者たちの間で争いが起こりました。

アブラハムは家族のリーダーとして、ロトに命令する権利がありました。「ここから出なさい」と言えば、ロトは従わなければなりませんでした。

けれども、アブラハムはそうしませんでした。代わりに、彼はこう言いました。

「私たちは親戚同士です。だから、争いはやめましょう。あなたが行きたい方を選んでください。もしあなたが左に行くなら、私は右に行きます。もしあなたが右に行くなら、私は左に行きます。」

そして、ロトがより良い土地を選んだ時も、アブラハムは文句を言いませんでした。むしろ、「神様があなたを祝福してくださるように」と言い、ロトと別れました。

その後、神様はアブラハムを豊かに祝福してくださいました。

もし喧嘩するときに、私たちが「あなたは私の友人です。あなたは私の妻です。あなたは私の夫です。私たちの関係は、この喧嘩よりも大切です。あなたを愛しているから、私は譲ります。」と言えたら、私たちの人生はどれほど良くなるでしょうか。

私たちがプライドを捨て、パウロの言葉の通り、キリストを恐れ尊び、互いに従い合えば(エペソ5:21)、私たちの人生はどれほど豊かになるでしょうか。

そして、神様はどれほど私たちの関係を祝福してくださることでしょうか。

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祝福になるため?

以前言ったように、聖書の登場人物はどんなに敬虔であっても、失敗することがありました。アブラハムもそのとおりです。

飢きんがあったため、アブラハムとサラはエジプトに行って滞在しました。けれども、アブラハムは神様に信頼せず、サラにこう言いました。

「あなたが私の妻であることを誰にも言わないでください。あなたが私の妹だと言ってください。」

実はそれは真実でした。アブラハムとサラは異母兄妹だったのです。

結果はどうだったでしょうか。パロはサラを自分の妻として迎えました。

サラはどう思ったでしょうか。「私の主人はひどい。なぜ何も言わなかったの?どうしよう」と感じたかもしれません。

アブラハムはいったい何を考えていたのでしょうか。

神様に信頼しなかったにもかかわらず、アブラハムは一時的な祝福を受けました。羊やラクダ、家畜など、パロからたくさんのものをもらいました。

しかし、パロにとってアブラハムは祝福ではなく、呪いとなりました。神様はサラの件で、パロとその家をひどい災害で痛めつけました。

最終的に、パロはサラをアブラハムに返しましたが、アブラハムとその家族をエジプトから追い出しました。

アブラハムはその経験から学ぶべきでしたが、数年後に同じことをしました。

アブラハムはゲラルという場所に行き、「サラは私の妹です」と言って、王によってサラはその妻として迎えられました。

サラは「また!私の主人はひどい!信じられない!」と思ったかもしれません。

そして、神様は王に警告しました。「サラはアブラハムの妻です。彼女を返さなければ、あなたは必ず死ぬ。」と告げられました。

このようにして、アブラハムは王にとってもサラにとっても呪いとなりました。

パロとゲラルの王は同じような反応を示しました。

あなたは私にいったい何という事をしたのか。

なぜ彼女があなたの妻である事を、告げなかったのか。なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。

だから、私は彼女を私の妻として召しいれていた。(創世記12:18-19)

また、

あなたはなんという事を、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪あなたに犯したのか。

あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。 あなたはどういうつもりで、こんな事をしたのか。(創世記20:9-10)

アブラハムの答えは?

「あなたがたが不敬虔な人々だから、私を殺して私の妻を奪うと思ったので、うそをつきました。さらに実際には、それはうそではありません。彼女は本当に私の妹です。」

では、パロとゲラルの王の返事は何だったのでしょうか。「あなたの神様を本当に知りたい。あなたの言葉と行動を通して、私はあなたの神に惹き付けられています。」と言ったのでしょうか。

まったく違うと思います。たぶん、「私の方がアブラハムより正しい。彼のせいで私が呪われた。」と思ったのではないでしょうか。

アブラハムを非難するのは簡単です。けれども、どれほど私の周りの人々が、私について同じようなことを言えるでしょうか。

私が周りの人々にとって祝福ではなく呪いになっていることは、どれほどあるのでしょうか。

私は自分の妻にとってどれほど呪いになっているでしょうか。同僚にとっては?

友人にとっては?

近所の人々にとっては?

正直に言うと、その答えを知りたくありません。

神様、私はあなたに信頼せず、自分の道を選んだことをどうか赦してください。私が周りの人々にとって祝福ではなく呪いになったことをどうか赦してください。

私の人生を通して、人々があなたに惹き付けられるようになりますように。私が変えるべきところを示してください。そして、それを変える力を与えてください。アーメン。

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祝福を受けるため。祝福を与えるため。

今日の箇所を読んで興味深いと感じたのは、神様がバベルの人々から取られたものをアブラハムに与えたということです。つまり、神様はアブラハムに大いなる国と大いなる名を与えられました。

やはり、そのようなもの自体は本質的に悪いものではありません。

さらに興味深いのは、神様が「あなたの名は祝福となる…地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」と言われたことです。

神様はアブラハムを祝福したいと望まれましたが、それと同時に、アブラハムが周りの人々を祝福することも望んでおられました。

最終的には、アブラハムの子孫であるイエス様を通して、この世界が祝福されました。

しかし、アブラハムが生きている間、神様が望まれたのは、アブラハムが他の人々を祝福することでした。

多くのクリスチャンたちは「神様、私を祝福してください」と祈りますが、どのくらい「神様、私によって他の人々を祝福してください」と祈るでしょうか。

「私の妻にとって、私は祝福となるように。私の子供、教会の人たち、同僚たち、近所の人たちにとっても、私が祝福となるように。」

どれほどそのように祈っているでしょうか。

興味深いのは、私たちが他の人にとって祝福となると、私たち自身も祝福されるということです。

箴言11:25にはこう書かれています。

おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。

英語の翻訳ではこう書かれています。

人をリフレッシュする者は自分がリフレッシュされる。

神様、時々自己中心になることは簡単です。そして、いつも自分の願いだけのために祈ってしまいます。しかし、どうか私を変えてください。

今日は私自身を祝福してくださるように祈るのではなく、むしろ私が周りの人々にとって祝福となるように祈ります。

私を通して、人々がリフレッシュされ、励まされるように祈ります。

私の妻、娘、教会の人々、同僚たち、近所の人々にとって、私が祝福となるように祈ります。

彼らが私の中にあなたを見出せますように。私の人生を通して、人々があなたに惹き付けられるようになりますように。

どうか私が自分自身に焦点を当てるのではなく、周りの人々に焦点を当てることができますように。私の心を変えてください。アーメン。

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出なさい

「出なさい!」

その言葉は少し厳しく聞こえるかもしれません。

ある英訳では、さらに厳しい表現になっています。「Get out!」、つまり、「出ていけ!」という意味です。

アメリカでは、子供たちが乱暴すぎるとき、親が苛立って「Get out!」と言うことがあるかもしれません。

神様は苛立ってはおられませんでしたが、アブラハムにとって神様の言葉は厳しいものだったでしょう。

なぜ神様はアブラハムにそのような命令をされたのでしょうか。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい」と命じられた理由は何だったのでしょうか。

もしかすると、周りの人々がアブラハムに悪い影響を与えていたのかもしれません。

アブラハムの家族は偽物の神々を崇拝していたのです。彼らは真の神様を崇拝していたかもしれませんが、他の神々も崇拝していました。(ヨシュア記24:2)

アブラハムとサラは神様に従い始めていましたが、彼らの考え方はすでに自分たちの文化の影響を受けていました。

創世記15章と16章を読めば、その影響ははっきりと分かります。そのため、神様は「出なさい」と命じられたのです。

私たちに影響を与えるものは何でしょうか。私たちの考え方と行動を形作っているものは何でしょうか。私たちの文化でしょうか。私たちの家族でしょうか。私たちの友達でしょうか。

アブラハムに「出なさい」と命じられたように、神様は私たちにも同じことをおっしゃっています。私たちは神様に喜ばれない、この世の影響から逃れるべきです。

パウロはこう言いました。

この世界と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12:2)

私たちの周りにあるいろいろなものが私たちにプレッシャーをかけ、影響を与えようとしています。

時々、ある人は私たちを愛していても、私たちにプレッシャーをかけ、影響を与えようとします。彼らは私たちの最善を望むかもしれません。

しかし、私たちが注意を払わなければ、彼らの影響によって、私たちは神様から離れた道を歩んでしまう可能性があります。だから、友達や家族であっても、自分の文化であっても、私たちは悪い影響から逃れるべきです。

その関係を完全に断ち切るべきだと言っているわけではありません。けれども例えば、アドバイスを求めるときは、神様の価値観を持っている人々を求めるべきです。

多くのクリスチャンたちは、世の価値観を持つ人々にアドバイスを求めることがあります。

その人が私たちを愛しているかもしれませんが、そのアドバイスが私たちを神様に喜ばれない道に導いてしまう可能性もあります。

「彼とセックスしてもいいでしょう。彼を愛しているから問題ありません。」

「彼女と結婚してもいいでしょう。彼女はクリスチャンではありませんが、構わないです。彼女を愛しているでしょう?さらに、あなたの影響で彼女がいつかクリスチャンになるかもしれません。」

「夫と離婚したら?今は本当に大変でしょう。」

「その仕事は良い選択でしょう。教会に行けなくなるけれど、それは仕方ありません。神様は理解してくださるでしょう。」

「仏壇の前で拝んでもいいでしょう。深い意味はありません。それは単なる日本の文化的習慣です。」

そのアドバイスを与える人々は善意を持っているかもしれません。しかし、彼らの価値観は異なります。もしそのアドバイスに従えば、私たちは神様に喜ばれない道を歩むことになります。

神様は何を言われたでしょうか。。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、私はあなたがたを受け入れ、私はあなたがたの父となり、あなたがたは私の息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント6:17-18)

それでも、私は繰り返します。その関係を完全に断ち切るべきだと言っているわけではありません。とはいえ、その人の影響から離れるほうが良いでしょう。

神様の御心を知りたいですか。神様を喜ばせたいと思っていますか。

御言葉を求め、従いましょう。そうすれば、神様の御心が何か、つまり、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知ることができるようになります。

また、神様の子としての人生を知り、誰よりもあなたを愛しておられる天の父を知るようになります。

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ためらっている

私にとって、日本に移住することは簡単な決断ではありませんでした。

ハワイで育ち、大学を卒業するまでずっとハワイに住んでいたからです。私の家族や友達は皆ハワイにいて、正直に言うと、あそこの生活はとても楽でした。私はずっとハワイで暮らそうと思っていました。

けれども、突然、神様が私を呼ばれました。神様は大きな声で私を呼ばれたわけではありませんし、私は奇跡的なしるしを見たわけでもありません。それでも、神様が私を呼ばれたのです。

その日のことはよく覚えています。

友だちと話しているうちに、なぜか分かりませんが、宣教師になることについて話し始めました。そして私はこう言いました。

「神様は、私が宣教師になることを望んでいないだろう。」

すると友だちがこう答えました。「本当にそう思うのか。神様にもう尋ねたのか。」

私は言いました。「いや、別に。。。」

その夜、神様と話した時、私はこう伝えました。

「くだらないことだと思うけど、友達に宣教師になることについて訊いたほうがいいって言われたんだ。」

それを言った瞬間、大きな声ではなかったけど、答えが返ってきました。「はい。尋ねなさい。」

私の返事をよく覚えています。「ええと。実は、私は尋ねたくありません。宣教師になれと言われたら困るから。」

それから2年ほど、私は悩み続けました。神様は「日本に行きなさい」と言われましたが、私は行きたくありませんでした。

結局、日本に引っ越すことになったのですが、驚いたことに、ハワイにいたときよりも日本の暮らしのほうが楽しかったのです。そして、「やっぱり、神様は何をしているのかよく知っておられる」と思いました。

アブラハムも私と同じように悩んでいたかもしれません。新改訳によれば、アブラハムの父テラが亡くなった後で、神様はアブラハムを呼ばれたようです。

しかし、英訳によれば、テラが死ぬずっと前から神様はアブラハムを呼ばれていたようです。使徒の働き7:2ー3にもそう書かれています。

神様が呼ばれた後、いつアブラハムは神様に従い始めたのでしょうか。それはちょっとはっきりしていません。けれども創世記11:31によれば、アブラハムはカナンに家族を連れて行くようにテラを説得したようです。

ところが、カナンに到着する前に彼らはカナンに行くことを諦めたようです。なぜ彼らは諦めたのでしょうか。それは私には分かりません。

もしかすると、テラはアブラハムに「もう疲れた。私は年をとり過ぎている。ここに泊まろう」と言ったのかもしれません。その後、彼らは自分たちの町を作り、テラが亡くなるまでそこに住んでいました。

けれども、テラが亡くなった後、アブラハムは神様の約束を思い出したようです。そして、神様に従おうと決心し、再びカナンに向けて出発しました。

神様が素晴らしい約束を与えてくださったのに、どうしてアブラハムはそんなに長く待ったのでしょうか。

たぶん、私と同じ理由でしょう。彼の生活は楽だったし、家族や友だちがいたからです。それにアブラハムは親孝行の気持ちを抱いていたかもしれません。

しかし、神様に従うことをためらったことで、アブラハムは神様の祝福を何年も逃してしまいました。

私たちの生活が楽すぎて、神様に従わないことで、どれほど多くの神様の祝福を逃しているのでしょうか。

私たちは良いものに執着し、より優れたものや最も良いものを逃してしまうことがどれほど多いでしょうか。

私にも、神様に従うことが難しいと感じる時があります。楽な人生が好きだからです。信仰によって歩くことが怖い時もあります。

しかし、私が学んだのは、神様が何をしているのかよく知っておられるということです。そして、神様に従えば、神様は私たちを祝福してくださいます。

イエス様はこう言われました。

まことに、あなた方に告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者で、だれ一人として、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠の命を受けない者はありません。(ルカ18:29-30)

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創世記

なんかおかしい

英語のことわざに「人生で確かなことは2つしかない。それが死と税金です」というものがあります。

けれども、最初はそうではありませんでした。最初は税金もなく、死もありませんでした。最初、アダムとエバは永遠のものとして造られました。

私たちは皆、死を当然のことだと思っていますが、昔はそうではなかったのです。

大洪水の後、人間の寿命がどれほど縮んだかは興味深いと思います。また、同時期に誰が生きていたのかも興味深いです。

私の計算が正しければ、ノアの息子セムはヤコブの時代まで生きていたことになります。アブラハムはセムよりも早く亡くなりました。セムは自分の子孫が亡くなるのを見て、どう感じたのでしょうか。

「なんかおかしい。どうして私の子供たちや孫たちはみんな私より早く死んだのだろう。なぜ平均寿命がこれほど縮まっているのだろうか。なんかおかしい」と思ったかもしれません。

確かに何かがおかしいのです。遺伝子に異常が起こり、人間の寿命はだんだん短くなってしまいました。テレビで110歳の人を見たら、私たちは驚きますよね。

誰も死について考えたくはないでしょう。私はもうすぐ40歳になりますが、私の人生はすでに半分ぐらい終わっているかもしれないと思うと信じられない気持ちになります。

私の高校の同級生の2人はすでに亡くなりました。親友ではありませんでしたが、彼らとはよく話していましたし、同じ授業も受けていました。そのうちの1人が心臓発作で亡くなったと聞いた時、私は驚きました。

ある人は、自分を慰めるために「人生とはそういうものだろう。死は自然なものだ」と言います。

しかし、それが本当ならば、人が死ぬときにどうして私たちはそんなに苦しむのでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者の書3:11)

それは本当です。「死は自然なものだ」と何回言っても、私たち皆は死後の世界を望むでしょう。死が終わりということを信じたくないものです。

真理は、死は終わりではないのです。

ある人は、こう言いました。

「私たちの人生は車の運転のようなものだ。結局車は古くなって、故障してしまいます。

けれども、車が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を体験するだけです。つまり、もう運転できなくて、歩かなくてはならないということです。

そのように、私たちの身体は車のようです。いつか、私たちの身体は老いて壊れてしまいます。

けれども、身体が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を経験するだけです。つまり、この世界を去り、新しい世界に入るのです。」

ある曲によれば、「もし、イエス様を知れば、私はいつまでも生きます。もし、イエス様を知れば、私は死ぬことはありません。」

しかし実際には、誰も死なないのです。私たち皆が永遠のものとして造られたからです。

自分に問いかけなければならないのは、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに行くのかということです。

今日、もしあなたが亡くなったなら、どこに行くのかを知っていますか。

ヨハネはこう言いました。

そのあかしとは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。

御子を持つ者は命を持っており、神の御子を持たない者は命を持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

もちろん、私たちは自分のことも考えなくてはならないけれど、私たちが愛している人たちのことも考えなくてはいけません。

私たちが愛している人たちは、死んだらどこに行くのでしょうか。そしてその人たちのために、私たちは何をするべきなのでしょうか。

パウロはこう言いました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べつたえる人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べつたえることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう。」(ローマ人への手紙10:14-15)

いつか、私たち全員が亡くなります。

あなたが愛している人は、もう準備ができていますか。

そして、あなた自身は準備ができていますか。

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創世記

神様から離れた人生

はい、分かりました。10章を飛ばしました。それはミスではありません。10章を読んだ際、心に響くものが特にありませんでした。

時にはそのような箇所もあるでしょう。今後も、ある箇所を飛ばす可能性があります。ご容赦ください。🙂

さて、バベルの話では、神様がまるで暴君のように描かれていると感じませんか。

一見すると、神様が弱い人々を虐げたり、散らしたりされたかのように思えます。なぜ、神様はそのようなことをされたのでしょうか。神様の動機は明確には示されていません。

なぜバベルの人々は団結を求めてはならなかったのでしょうか。なぜ素晴らしい塔を建てることが許されなかったのでしょうか。そして、なぜ名を上げることが禁じられていたのでしょうか。

聖書はこれらの疑問について明確に答えることはありません。私たちは理由を想像するほかないのです。

もしかすると、バベルの人々は神様中心の文化ではなく、人間中心の文化を築こうとしたのかもしれません。

さあ、我々は町を建て、頂きが天に届く塔を立て、[自分自身の]名をあげよう。(創世記4:11)

大洪水の前、そのような考え方が広がり、人間の文化は堕落してしまいました。その結果、神様はすべてを滅ぼされました。

しかし、そのような考え方は再び現れてしまいました。もしかすると、そのために神様は彼らの計画を止められたのかもしれません。

9節にはとても興味深い内容があります。

それゆえ、その街の名前はバベルと呼ばれた。主が地の言葉をそこで混乱させたから。。。

「バベル」とは、「混乱」という意味です。人々が神様を見捨て、自分たちの文化を築こうとするならば、最終的に彼らは混乱してしまいます。

多くの人は神様の人間関係に関する教えを拒絶し、「どうして私の人間関係がめちゃくちゃになったのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の結婚に関する教えを拒絶し、「どうして私の結婚生活がうまくいっていないのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の子育てに関する教えを拒絶し、「どうして私の子供がそんなに乱暴になったのか」と混乱してしまいます。

多くの人は神様の性に関する教えを拒絶し、「どうしていろいろな社会問題があるのか。性病、中絶、愛されていない子供、壊れた心など、なぜこんな問題があるのだろうか」と混乱してしまいます。

多くの人は喜びを与えてくださる神様から離れ、「どうして本当の喜びが見つけられないのか」と混乱してしまいます。

神様から離れた人生は、混乱に終わります。バベルの人々はその真理を知ることになりました。今もなお、多くの人々がその真理を学んでいるところです。

解決策は何でしょうか。それは、私たちの創造主のもとに戻ることです。そうすれば、秩序のある生活を見つけ、本当の命を見つけることができます。なぜならば、神様自身が命だからです。

イエス様はこう言われました。

盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。私は来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。

この世の人々がそう信じたらいいのにと思います。

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創世記

聖徒だけど、罪人です

大学生の頃、私は宗教の授業を受講していました。ユダヤ教を学んだ際、私たちはノアの話について取り上げました。教授はノアの話を、他の文化における大洪水の伝承と比較しました。

教授はこう言いました。 「他の文化の話では、大洪水の後、主人公はある島にたどり着き、天国のような場所で永遠に暮らしました。」

そして、教授は続けてこう言いました。 「しかし、ノアの話は全然違います。大洪水の後、ノアは酔っ払って死にました。」

生徒たちは大笑いしました。けれども、ある生徒が「それは本当ですか?」と尋ねると、教授は少し訂正しました。 「まあ、ノアは酔っ払ってすぐ死んだわけではありません。」

もちろん、私の教授はクリスチャンではありませんでしたが、重要な点を指摘していました。聖書に登場する最も敬虔な人物でさえ、神様を疑ったり、失敗したり、罪を犯したりしました。要するに、彼らも皆、弱い人間だったのです。

ノアも例外ではありませんでした。神様はノアを「全き人」と呼ばれました。それでも、この話では、ノアはぶどう酒を飲みすぎて酔っ払い、天幕の中で裸のまま気絶してしまいました。

それでも、この話を読んだとき、私は少し励まされました。私は疑いや弱さ、罪などをたくさん抱えているので、もし聖書のヒーローたちがすべて完璧だったら、きっと絶望してしまっていたでしょう。

神様はノアや他の聖書のヒーローたちの弱さや罪を隠されません。それでも、神様は彼らを絶えず責め続けておられるわけではありません。

創世記9章以外で、神様がノアについて話されるとき、ノアの失敗に言及することはありません。ノアの義についてのみ語られています。

神様は私たちのことも同じように考えておられるのです。詩篇103:8-12で、ダビデはこう歌いました。

主は、哀れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱う事をせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れるものの上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

また、ヘブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)

この記事のタイトルは「聖徒だけど、罪人です」です。しかし、たぶん神様は私たちをそのようには考えておられないでしょう。

神様の記録には、私たちの罪や失敗が記されているかもしれませんが、それは私たちの記録のほんの一部です。記録された内容の主な部分は、イエスが私たちを救い、贖ってくださったという事実です。

イエス様の血によって、私たちは神様の前に、聖く、傷のない者となりました。私たちは神様に愛されている聖徒となったのです。

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:6)

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創世記

あわれみの契約

今日、少し悲しい事実に気づきました。もしかしたら、天国にはステーキがないかもしれません。万が一バーベキューがあったとしても、野菜しか出てこない可能性があります。

なぜなら、大洪水の前、人々は野菜と果物だけを食べていました。そして大洪水の後にだけ、神様は人々に肉を食べることを許されたのです。それ以前は、人々は肉を食べてはいけませんでした。

天国には美味しい代替肉があるでしょうか?ステーキが恋しくならない日本人もいるかもしれませんが、天国には寿司や刺身があるのでしょうか。

とにかく、創世記9章には初めてのことがたくさん記されています。例えば最初のステーキや最初のバーベキューなど、そのようなものが存在しなかった時代を想像することは難しいですね。

それらは素晴らしいことでしたが、その時に動物と人間の関係に恐怖が初めて入り込みました。また、動物と動物の関係にも恐怖が初めて入り込んだのです。

イエス様が再びこの世に来られるまで、ライオンが羊と共に暮らすことはないでしょう。

さらにもう一つの「初めて」があります。それは、神様が人間と初めて契約を結ばれたことです。

ただ、その契約は双方的なものではなく、一方的なものでした。つまり、神様が何かをなさると約束されましたが、人間は何もする必要がありませんでした。

実際、神様が人間と神の両方に何かを求める契約は珍しいものです。

もしかすると、神様がよく知っておられたのは、人間が弱く、そのような契約をすぐに破ってしまうということだったのかもしれません。

数百年後にイスラエル人との契約は双方的なものでしたが、イスラエル人は何度もその契約を破ってしまいました。

しかし、最初の契約は一方的なものでした。人間がしなければならないことはまったくなく、神様だけが約束されました。

「もはや大洪水が地を滅ぼすことはない」と神様が約束してくださったのです。

一方的な契約でよかったのです。もしその契約が人間の行いに基づいていたなら、地はすぐに滅ぼされていたでしょう。なぜなら、大洪水の直後に人間は再び罪に陥ったからです。

神様はそのことをすでに知っておられました。神様は私たちの弱さを熟知しておられました。人間がすぐに罪に陥る性質をよく知っておられたのです。

おそらく、こうした理由から、神様は一方的な契約を結ばれたのではないでしょうか。

以前にも言ったように、神様は悪者の死を喜ばれることはありません。むしろ、神様はその死に心を痛められます。

大洪水の時、その雨は神様の涙のように思えます。だからこそ、人間がどんなに悪くなっても、神様は二度と大洪水を起こそうとはされませんでした。

今日に至るまで、神様はその約束を忠実に守っておられます。年月が経ち、悪が増え続けても、神様はその約束を覚えて守り続けてくださいます。そして虹はその契約の印です。本当に神様の恵みは素晴らしいですね。

そのあわれみの契約も素晴らしいですが、さらに素晴らしいあわれみの契約があります。

最初の契約は大洪水による裁きを防ぐものでした。しかし、ある日、私たち全員は神様の裁きを受けることになります。その裁きは水によるものではなく、火によって行われます(第二ペテロ3:6ー7)。

その時には最初のあわれみの契約は無効になるでしょう。

けれども、もう一つのあわれみの契約があります。裁きの日、その契約は依然として有効です。それは、イエス様の十字架の働きを信じる信仰によって、私たちの罪が赦されるという契約です。

パウロはこう言いました、

しかし、私たちの救い主なる神の慈しみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分の哀れみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:4ー5)

ノアとその家族は、神様のあわれみによって救われました。同じように、神様のあわれみによって、私たちも裁かれることはありません。

むしろ、裁きの日に神様のみ顔を見るとき、イエス様とその十字架の御業を信じる私たちは、あわれみを受け、救われます。

あなたも神様のあわれみを深く知ることができるように祈ります。