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創世記

あわれみの契約

創世記9章

今日、少し悲しい事実に気づきました。もしかしたら、天国にはステーキがないかもしれません。万が一バーベキューがあったとしても、野菜しか出てこない可能性があります。

なぜなら、大洪水の前、人々は野菜と果物だけを食べていました。そして大洪水の後にだけ、神様は人々に肉を食べることを許されたのです。それ以前は、人々は肉を食べてはいけませんでした。

天国には美味しい代替肉があるでしょうか?ステーキが恋しくならない日本人もいるかもしれませんが、天国には寿司や刺身があるのでしょうか。

とにかく、創世記9章には初めてのことがたくさん記されています。例えば最初のステーキや最初のバーベキューなど、そのようなものが存在しなかった時代を想像することは難しいですね。

それらは素晴らしいことでしたが、その時に動物と人間の関係に恐怖が初めて入り込みました。また、動物と動物の関係にも恐怖が初めて入り込んだのです。

イエス様が再びこの世に来られるまで、ライオンが羊と共に暮らすことはないでしょう。

さらにもう一つの「初めて」があります。それは、神様が人間と初めて契約を結ばれたことです。

ただ、その契約は双方的なものではなく、一方的なものでした。つまり、神様が何かをなさると約束されましたが、人間は何もする必要がありませんでした。

実際、神様が人間と神の両方に何かを求める契約は珍しいものです。

もしかすると、神様がよく知っておられたのは、人間が弱く、そのような契約をすぐに破ってしまうということだったのかもしれません。

数百年後にイスラエル人との契約は双方的なものでしたが、イスラエル人は何度もその契約を破ってしまいました。

しかし、最初の契約は一方的なものでした。人間がしなければならないことはまったくなく、神様だけが約束されました。

「もはや大洪水が地を滅ぼすことはない」と神様が約束してくださったのです。

一方的な契約でよかったのです。もしその契約が人間の行いに基づいていたなら、地はすぐに滅ぼされていたでしょう。なぜなら、大洪水の直後に人間は再び罪に陥ったからです。

神様はそのことをすでに知っておられました。神様は私たちの弱さを熟知しておられました。人間がすぐに罪に陥る性質をよく知っておられたのです。

おそらく、こうした理由から、神様は一方的な契約を結ばれたのではないでしょうか。

以前にも言ったように、神様は悪者の死を喜ばれることはありません。むしろ、神様はその死に心を痛められます。

大洪水の時、その雨は神様の涙のように思えます。だからこそ、人間がどんなに悪くなっても、神様は二度と大洪水を起こそうとはされませんでした。

今日に至るまで、神様はその約束を忠実に守っておられます。年月が経ち、悪が増え続けても、神様はその約束を覚えて守り続けてくださいます。そして虹はその契約の印です。本当に神様の恵みは素晴らしいですね。

そのあわれみの契約も素晴らしいですが、さらに素晴らしいあわれみの契約があります。

最初の契約は大洪水による裁きを防ぐものでした。しかし、ある日、私たち全員は神様の裁きを受けることになります。その裁きは水によるものではなく、火によって行われます(第二ペテロ3:6ー7)。

その時には最初のあわれみの契約は無効になるでしょう。

けれども、もう一つのあわれみの契約があります。裁きの日、その契約は依然として有効です。それは、イエス様の十字架の働きを信じる信仰によって、私たちの罪が赦されるという契約です。

パウロはこう言いました、

しかし、私たちの救い主なる神の慈しみと人への愛とが現れたとき、神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分の哀れみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。(テトス3:4ー5)

ノアとその家族は、神様のあわれみによって救われました。同じように、神様のあわれみによって、私たちも裁かれることはありません。

むしろ、裁きの日に神様のみ顔を見るとき、イエス様とその十字架の御業を信じる私たちは、あわれみを受け、救われます。

あなたも神様のあわれみを深く知ることができるように祈ります。

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