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創世記

聖徒だけど、罪人です

創世記9:20ー21

大学生の頃、私は宗教の授業を受講していました。ユダヤ教を学んだ際、私たちはノアの話について取り上げました。教授はノアの話を、他の文化における大洪水の伝承と比較しました。

教授はこう言いました。 「他の文化の話では、大洪水の後、主人公はある島にたどり着き、天国のような場所で永遠に暮らしました。」

そして、教授は続けてこう言いました。 「しかし、ノアの話は全然違います。大洪水の後、ノアは酔っ払って死にました。」

生徒たちは大笑いしました。けれども、ある生徒が「それは本当ですか?」と尋ねると、教授は少し訂正しました。 「まあ、ノアは酔っ払ってすぐ死んだわけではありません。」

もちろん、私の教授はクリスチャンではありませんでしたが、重要な点を指摘していました。聖書に登場する最も敬虔な人物でさえ、神様を疑ったり、失敗したり、罪を犯したりしました。要するに、彼らも皆、弱い人間だったのです。

ノアも例外ではありませんでした。神様はノアを「全き人」と呼ばれました。それでも、この話では、ノアはぶどう酒を飲みすぎて酔っ払い、天幕の中で裸のまま気絶してしまいました。

それでも、この話を読んだとき、私は少し励まされました。私は疑いや弱さ、罪などをたくさん抱えているので、もし聖書のヒーローたちがすべて完璧だったら、きっと絶望してしまっていたでしょう。

神様はノアや他の聖書のヒーローたちの弱さや罪を隠されません。それでも、神様は彼らを絶えず責め続けておられるわけではありません。

創世記9章以外で、神様がノアについて話されるとき、ノアの失敗に言及することはありません。ノアの義についてのみ語られています。

神様は私たちのことも同じように考えておられるのです。詩篇103:8-12で、ダビデはこう歌いました。

主は、哀れみ深く、情け深い。怒るのに遅く、恵み豊かである。

主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。

私たちの罪にしたがって私たちを扱う事をせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。

天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れるものの上に大きい。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

また、ヘブル人への手紙の著者も同じようなことを言いました。

もはや、彼らの罪を思い出さないからである。(ヘブル8:12)

この記事のタイトルは「聖徒だけど、罪人です」です。しかし、たぶん神様は私たちをそのようには考えておられないでしょう。

神様の記録には、私たちの罪や失敗が記されているかもしれませんが、それは私たちの記録のほんの一部です。記録された内容の主な部分は、イエスが私たちを救い、贖ってくださったという事実です。

イエス様の血によって、私たちは神様の前に、聖く、傷のない者となりました。私たちは神様に愛されている聖徒となったのです。

それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1:6)

One reply on “聖徒だけど、罪人です”

[…] 以前言ったように、聖書の登場人物はどんなに敬虔でも、よく失敗しました。アブラハムもそのとおりです。飢きんで、アブラハムとサラはエジプトに行って、泊まりました。でも、アブラハムが神様に信頼しなくて、サラに言ったのは「あなたが私の妻であることを誰にも言わないでください。あなたが私の妹であるこ とを言ってください。」ということです。実はそれは本当でした。アブラハムとサラは同じお父さんがいたけど、違うお母さんがいた。 […]

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