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創世記

なんかおかしい

創世記11:10ー32

英語のことわざに「人生で確かなことは2つしかない。それが死と税金です」というものがあります。

けれども、最初はそうではありませんでした。最初は税金もなく、死もありませんでした。最初、アダムとエバは永遠のものとして造られました。

私たちは皆、死を当然のことだと思っていますが、昔はそうではなかったのです。

大洪水の後、人間の寿命がどれほど縮んだかは興味深いと思います。また、同時期に誰が生きていたのかも興味深いです。

私の計算が正しければ、ノアの息子セムはヤコブの時代まで生きていたことになります。アブラハムはセムよりも早く亡くなりました。セムは自分の子孫が亡くなるのを見て、どう感じたのでしょうか。

「なんかおかしい。どうして私の子供たちや孫たちはみんな私より早く死んだのだろう。なぜ平均寿命がこれほど縮まっているのだろうか。なんかおかしい」と思ったかもしれません。

確かに何かがおかしいのです。遺伝子に異常が起こり、人間の寿命はだんだん短くなってしまいました。テレビで110歳の人を見たら、私たちは驚きますよね。

誰も死について考えたくはないでしょう。私はもうすぐ40歳になりますが、私の人生はすでに半分ぐらい終わっているかもしれないと思うと信じられない気持ちになります。

私の高校の同級生の2人はすでに亡くなりました。親友ではありませんでしたが、彼らとはよく話していましたし、同じ授業も受けていました。そのうちの1人が心臓発作で亡くなったと聞いた時、私は驚きました。

ある人は、自分を慰めるために「人生とはそういうものだろう。死は自然なものだ」と言います。

しかし、それが本当ならば、人が死ぬときにどうして私たちはそんなに苦しむのでしょうか。

ソロモンはこう言いました。

神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。(伝道者の書3:11)

それは本当です。「死は自然なものだ」と何回言っても、私たち皆は死後の世界を望むでしょう。死が終わりということを信じたくないものです。

真理は、死は終わりではないのです。

ある人は、こう言いました。

「私たちの人生は車の運転のようなものだ。結局車は古くなって、故障してしまいます。

けれども、車が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を体験するだけです。つまり、もう運転できなくて、歩かなくてはならないということです。

そのように、私たちの身体は車のようです。いつか、私たちの身体は老いて壊れてしまいます。

けれども、身体が壊れても、私たちが死ぬわけではありません。私たちは新しい現実を経験するだけです。つまり、この世界を去り、新しい世界に入るのです。」

ある曲によれば、「もし、イエス様を知れば、私はいつまでも生きます。もし、イエス様を知れば、私は死ぬことはありません。」

しかし実際には、誰も死なないのです。私たち皆が永遠のものとして造られたからです。

自分に問いかけなければならないのは、私たちが永遠に生きるかどうかではなく、私たちがどこに行くのかということです。

今日、もしあなたが亡くなったなら、どこに行くのかを知っていますか。

ヨハネはこう言いました。

そのあかしとは、神が私たちに永遠の命を与えられたということ、そしてこの命が御子のうちにあるということです。

御子を持つ者は命を持っており、神の御子を持たない者は命を持っていません。(第一ヨハネ5:11-12)

もちろん、私たちは自分のことも考えなくてはならないけれど、私たちが愛している人たちのことも考えなくてはいけません。

私たちが愛している人たちは、死んだらどこに行くのでしょうか。そしてその人たちのために、私たちは何をするべきなのでしょうか。

パウロはこう言いました。

しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。

聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。

宣べつたえる人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

遣わされなくては、どうして宣べつたえることができるでしょう。

次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんと立派でしょう。」(ローマ人への手紙10:14-15)

いつか、私たち全員が亡くなります。

あなたが愛している人は、もう準備ができていますか。

そして、あなた自身は準備ができていますか。

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