私はアブラハムを軍事戦略家としてはあまり考えませんが、この箇所では、彼の行動に驚かされます。
ロトとその家族を救い出すために、アブラハムは318人の手勢で、5人の王とその軍隊を相手に戦い、打ち破りました。
その時、プライドを持つのは容易だったでしょう。「私は偉大だ。私は優れたリーダーだ。」と思ってもおかしくありません。
しかし、アブラハムはそうしませんでした。むしろ、神の祭司メルキゼデクが「この勝利は主から来た」と言った時、アブラハムはそれに賛同しました。
そして、アブラハムはメルキゼデクにすべてのものの十分の一を献げました。
さらに、アブラハムはリーダーであったにもかかわらず、略奪を全く行わず、一緒に戦った者たちにその分け前を与え、残りをソドムの王と彼に組した王たちに戻しました。
どうしてでしょうか。それは本当の祝福がどこから来るかを彼が覚えていたからです。
また、アブラハムは不敬虔な人々から何も受け取りたくなかったのです。彼は23節でこう言いました。
「糸一本でも、靴ひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが『アブラハムを富ませたのは私だ』と言わないためだ。」
私たちはどれほどプライドの罠に陥りやすいでしょうか。自分の才能や努力だけで成功したと思い始め、神様がその才能や力を与えてくださったことを忘れます。
それを忘れると、神様を忘れることも容易になり、神様から離れて、ほかのものから祝福を求め始めます。例えば、お金やこの世の物から祝福を得ようとするようになります。
イスラエル人も約束の地に入った後、同じことが起こりました。ヨシュアの世代の人々が亡くなると、イスラエル人は神様が自分たちをその地に導いてくださったことを忘れました。
そして、さまざまな神々から祝福を求め、神様を脇に置いてしまいました。つまり、彼らは神様をあまり大切にしなくなったのです。
多くの場合、彼らは神様を捨てたわけではありませんが、他のものを求め、神様を脇に置いていました。
私たちも同じようなことをしてしまうのではないでしょうか。神様を捨てるわけではありませんが、神様を脇に置くことがあります。
私たちの人生がうまくいくとき、どうやってその罠を避けることができるでしょうか。
一つ目は、神様がどなたであるかを覚えておくことです。つまり、神様は天と地を創造された方、いと高き神です。
ヘブル語の別の解釈では、「神様は天と地の所有者」とも表現されています。
つまり、神様はすべてを創られたので、すべては神様のものです。そして、私たちの持ち物もすべて神様から来るものです。
第一コリント4:7にはこう書かれています。
いったい誰が、あなたをすぐれた者と認めるのですか。
あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。
もしもらったのなら、なぜもらっていないかのように誇るのですか。
エレミヤ9:23-24では、神様がこう言われました。
知恵あるものは自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富むものは自分の富を誇るな。
誇るものは、ただ、これを誇れ。悟りを得て、私を知っている事を。
私は主であって、地に恵みと公儀と正義を行うものであり、私がこれらの事を喜ぶからだ。
私たち自身ではなく主にあって誇るならば、私たちは祝福と成功がどこから来るかを覚えておくことができます。
二つ目は、受けた祝福に対して神様に感謝することです。
メルキゼデクは言葉で感謝を捧げ、アブラハムは十一献金によって感謝を捧げました。
時々クリスチャンの中には「十一献金を捧げなくてもいい。それは旧約聖書の律法だけで、私たちはもうその律法に縛られていない」と言う人がいます。
それは事実です。しかし、律法が与えられる前に、モーセではなくアブラハムが、初めて十一献金を捧げました。そしてそれは、神様に感謝するしるしとして捧げたものでした。
私たちもそれと同じです。律法を守るためではなく、義務としてでもなく、献金を通して神様に感謝を表し、私たちが祝福をどこから受けているかを認めます。
その結果、プライドの罠を避けることができるのです。
神様、祝福と成功がどこから来るのかを、いつも覚えていられるようにしてください。
私の才能や努力だけではないことを認めます。すべてがあなたから来ることを認めます。
感謝の心を常に持てるように助けてください。私が他のものを求めるあまり、あなたを脇に置かないようにしてください。
私の人生の中心にあなたを置くことができますように。アーメン。
