最近、中年の生徒と娘さんの彼について話しました。生徒が彼に初めて会った時、様々なことについて話しましたが、突然彼がこう言いました。「あなたの娘さんと一緒に海外旅行に行きます。」
生徒の答えは、「私はびっくりしましたが、許しました」というものでした。おそらく、その生徒は自分を良い父親だと思ったのかもしれません。
そのカップルが別々の部屋に泊まるかもしれませんが、そうしないとしても驚くことはないでしょう。私たちの文化では、カップルが結婚する前に一緒に過ごすことはごく普通のことです。
最近、私の姉も別の話を聞きました。16歳の娘さんの誕生日パーティーについて話した時、あるお母さんがこう言いました。「ウォッカを取り上げましたが、ラム酒は許しました。」
そのお母さんは、十代の子どもがアルコールを飲むことを当たり前だと思ったのかもしれません。
私たちの文化では、多くのことが普通に見えるかもしれません。しかし、重要なのは、これが普通であるかではなく、これが正しいことであるかどうかということです。
アブラハムも似たような問題に直面しました。神様が子どもを与えることを約束されましたが、10~20年待っても子どもは与えられませんでした。
さらに、サラはすでに年をとっており、子どもを授かることができない状況でした。
その文化では、家族の名が途絶えることは非常に深刻な問題でした。家族の名がなくなることは最悪の事態だと考えられていたでしょう。
また、その時代の文化では、妻が子どもを産めない場合、女奴隷を主人に与えることが一般的でした。主人が女奴隷と関係を持ち、赤ちゃんが生まれ、その赤ちゃんが相続人となるのです。
そのため、サラはその文化の習慣に従いました。それは当時の社会では普通のことでした。けれども、それが正しかったのでしょうか。答えは「いいえ」です。
神様はサラが子どもを産むことを約束されていましたが、彼らはその約束を信じませんでした。神様のタイミングを待たず、文化に従い、自分たちで神様の約束を成就させようとしました。
その結果、赤ちゃんは生まれました。
ところが、予想しなかった問題が発生しました。女奴隷ハガルが妊娠していることが分かった時、彼女はサラを軽蔑しました。
サラは怒り、アブラハムを責めてこう言いました。「これはあなたのせいです。」
けれども、それは元々サラ自身の提案だったのです。
さらに、この決断がもたらしたもう一つの予想外の結果として、ハガルの子孫(イスラム教徒)とサラの子孫(ユダヤ人)の間に長きにわたる戦争の歴史が生まれました。
しかし、神様の言葉から離れて文化に従うと、そのようなことが起こるのです。
文化は移り変わります。100年前に普通だったことは、今では普通ではないでしょう。同様に、100年後には、今普通だと思われていることももはや普通ではなくなるでしょう。
その一方、神様の道と言葉は決して変わることがありません。
そして、神様の道と言葉から離れると、私たちは自らを危険にさらしてしまいます。望まない妊娠、中絶、アルコール中毒、離婚、壊れた家族など、こうした例を私はいくらでも挙げることができます。
だからこそ、私たちは選択しなければなりません。文化に従うのか、それとも神様に従うのか。
時には矛盾がないこともありますが、もし矛盾があった場合、私たちはどちらを選ぶべきでしょうか。
ヨシュアがイスラエル人を約束の地に導いた時、こう言いました。
今、あなたがたは主を恐れ、誠実と真実を持って主に仕えなさい。あなたがたの先祖たちが川の向こうおよびエジプトで仕えた神々を取り除き、主に仕えなさい。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、今日選びなさい。
しかし、私と私の家とは、主に仕えます。(ヨシュア記24:14-15)
イスラエル人たちはエジプトで先祖たちが従っていた文化の習慣を続けるか、それとも捨てるかを決めなければなりませんでした。文化に従うのか、神様に従うのかを選択しなければならなかったのです。
私たちも同じようにその選択をしなければなりません。
私たちもヨシュアの言葉を宣言しましょう。「私と私の家とは、主に仕えます。」
