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でも、フェアじゃない

私は大阪に住んでいた時、デビッドという人と同じ寮で暮らしていました。

私はデビッドに本当にイライラさせられました。あまり仲が良くありませんでした。私が一番イライラしたのは、彼が約束を守らなかったことです。

つまり、一緒に暮らし始めた時、私たちは交代でトイレとお風呂を掃除し、日常用品を買うことに同意しました。私は約束を守りましたが、彼は全然守りませんでした。

時々私は丁寧に頼みましたが、イライラした時には言い方が荒くなってしまいました。でも、丁寧に頼んでも荒く頼んでも、何も変わりませんでした。

トイレットペーパーがなくなった時、私は自分の部屋からティッシュペーパーを持ってきて、彼がトイレットペーパーを買ってくるのを待っていました。

普通は2~3日間かかりましたが、その間、彼はポケットティッシュをトイレに置きました。それを見ると、私はすぐに取ってしまいました。

はい、分かっています。私も悪かったです。でも、本当にイライラしました。

私の心にいつもぐるぐる回っている思いは「これはフェアじゃない」ということでした。

「どうして、いつも私がお風呂とトイレを掃除しなければならないのだろうか。どうして、いつも私がトイレットペーパーとティッシュペーパーを買わなければならないのだろうか。」と考えていました。

私は正しかったです。でも、私は悪かったのです。もちろん、それはフェアではありませんでしたが、その問題を解決する方法は良くありませんでした。

イサクは私よりも忍耐強かったのです。

ペリシテに住んでいた時、ペリシテ人はイサクを妬んで、アブラハムが掘った井戸に土を詰めてしまいました。

イサクが新しい井戸を掘ると、ペリシテ人は「この水は私たちの物だ。ここを出て行きなさい。」と言いました。

イサクが他の場所に移り、新しい井戸を掘った時、彼らはまた同じことをしました。

私だったら、きっと怒っていたと思います。私はこう言ったでしょう。

「これはフェアじゃない。私はこの井戸を掘ったのに。どうしてこのペリシテ人がこの井戸を取って使う権利があるのか。どうして私はまた新しい井戸を掘らなくてはならないのか。水が必要なら、彼らが自分の井戸を掘るべきだ。」

でも、イサクは私とは違いました。

文句を言わずに、井戸を掘り続けたのです。結局、ペリシテ人はイサクをもう困らせることはありませんでした。

そして後に、ペリシテ人との平和条約を結ぶことができました。

私は普通に忍耐強いですが、状況がフェアではないと思うと、すぐに怒ってしまいます。

でも、神様が命じられたのは、「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」ということです。(ローマ12:18)

そのためには、私たちは人をありのままで受け入れなければなりません。

家事に関して、私はデビッドを頼ることができませんでした。彼が家事をまったくしなかったからです。私はデビッドを変える力がなかったので、彼をありのままで受け入れるしかありませんでした。

デビッドを変えようとしましたが、結局うまくいきませんでした。

人は変わりたいと思えば変わるかもしれませんが、私たちが他人を変えることはできません。だから、不公平な状況に直面することも多いかもしれません。

でも、相手を受け入れないと、相手との平和を失うだけでなく、自分の心の中の平和も失います。

誰かが私たちを怒らせた時、何も言わない方がいいでしょうか?とんでもありません。

一度、またはもう一度何かを言うべきです。でも、その後は、その人を許しましょう。

相手が変わらなくても、受け入れましょう。なぜなら、イエスキリストは私たちを受け入れてくださったからです。パウロはこう言いました。

キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい。(ローマ15:7)

パウロは教会の関係について語りました。

もし私たちが教会でも、仕事でも、学校でも、家庭でも、互いに受け入れるのなら、私たちの関係はどれほど良くなるのでしょうか。

そして、どれほど神様に栄光をおささげすることができるのでしょうか。

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恐れによって生きている?

私はイサクの行動が信じられません。

アブラハムがしたように、自分の妻を紹介するときに、「こちらは私の妹です」と言いました。

なぜ信じられないのでしょうか。それは、アブラハムが同じことをしたとき、イサクはまだ生まれていなかったからです。

アブラハムはそのような悪いアドバイスを与えたのでしょうか。「外国に行ったら、リベカを妹として紹介したほうがいい」と言ったのでしょうか。

そう言ったとしても、なぜアブラハムはイサクに、パロとアビメレクの反応について注意しなかったのでしょうか。

恐れるとき、私たちは馬鹿なことをよくします。アブラハムもそうでしたし、イサクもそうでした。

恐れると、私たちは行動の結果を正しく見ることができなくなります。将来が怖いから、占い師や星占い師に相談してしまいます。

私たちは一人ぼっちの人生を怖がるあまり、相応しくない人と結婚することがあります。

私たちは彼氏や彼女を失うことを恐れるため、一緒に寝てしまいます。

私たちの家族や友達に拒絶されることを恐れるあまり、行動や言葉でイエス様を否定してしまうことがあります。

しかし、神様は私たちに将来を恐れて生きることを望んでおられません。

神様は私たちを愛し、世話してくださいます。また、神様は私たちに最善を望んでおられます。神様は、私たちがそのことを知り、それに基づいて生きることを望んでおられます。

私たちが心からそれを信じることができればいいのにと思います。

いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。
私は主に申し上げよう。

「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわがが神。」と。(詩篇91:1ー2)

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近視的

子供の頃、私の家族はみんな眼鏡をかけていました。

どうしてかはわからないけれど、私は少し羨ましく思っていました。

かっこいいと思ったので、目を大事にせずに過ごし、小学校二年生のときから眼鏡が必要になりました。

これまでにたくさんの眼鏡やコンタクトレンズを買ってきました。目を大事にしなかったことを本当に後悔しています。

エサウは自分の将来に対して、かなり近視的でした。

長男として、いろいろな特権がありました。彼の遺産は兄弟の遺産の二倍だったし、イサクが亡くなったら、エサウは家族のリーダーになるべきで、神様がアブラハムとイサクに約束された祝福を受け継ぐべきでした。

でも、エサウはその特権を軽蔑しました。彼は現在の欲望を優先し、その特権にはあまり価値がないと思いました。だから、一瞬で、レンズ豆の煮物のためにすべてをヤコブに与えました。

エサウを批判するのは簡単ですけど、私たちはどれくらいイエス・キリストにおける遺産を軽視しているでしょうか。

どれくらい私たちは現在の必要と欲望を天の遺産より優先しているでしょうか。私たちは自分のキャリアを追求し、お金を追い求め、物を追い求める中で、一番大切なことを忘れがちです。

結局、この世界から天国に持っていけるのはたった2つだけです。つまり、神様との関係と神様を知っている人たちとの関係です。

この2つのものは永遠です。天国の遺産の大部分を構成するのは、この2つのものです。

この世界の残りは埃になり、なくなります。だから、こんな一時的なものに、なぜそんなに焦点を当てるのでしょうか。

ヨハネはこう書きました。

世界も、世にあるものも、愛してはなりません。

もし誰でも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわ ち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15ー16)

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振り返らない

日本に引っ越したとき、どれぐらいここにいるか全然分かりませんでした。最初の計画は、二年間ぐらいここに住んでみることでした。

その間に、神戸の教会に行き始めました。そこで、スモールグループのセミナーがありました。そのとき、神戸の牧師が宣教師について話しました。

ある言葉が本当に心に残りました。

それは、「日本に宣教師として来るなら、Bの計画を持ってはいけません。Aの計画だけを持つべきです。」というものでした。

つまり、ずっと日本にとどまることを計画するべきだ、ということです。

「うまくいかないから帰る」という考えを捨ててください、と言われました。

なぜなら、日本で関係を築くのには時間がかかります。そして、日本人がクリスチャンになるために、その関係はとても大切なのです。

その牧師の経験では、多くの人がこう言いました。

「キリスト教に興味があるけど、あなたはどれぐらい日本にいるつもりでしょうか。もし、私がクリスチャンになってから、あなたがアメリカに帰ってしまったら、私はどうすればいいのですか。」

私はその言葉を忘れず、その後、ずっと日本にいることを決めました。

この箇所を読んで、そのことについて考えました。

アブラハムはイサクのために妻を見つけたかったのですが、カナン人と結婚することを望みませんでした。だから、妻を捜すために、アブラハムの親戚の元へしもべを送りました。

しもべは尋ねました。「もし誰もカナンに引っ越したがらないなら、どうしますか。あそこに戻りましょうか。」

けれども、アブラハムは答えました。「絶対に戻らないでください。」

それは聖書に記されたアブラハムの最後の言葉です。

どうしてアブラハムはそんなに断固とした態度をとったのでしょうか。神様が「以前の人生を捨てて、私と新しい人生を始めなさい」と命じられたからです。

そして、アブラハムは、イサクが神様の約束を捨てることを望みませんでした。

それに、神様に従えば、神様が必ずイサクのために妻を備えてくださると信じました。だから出身地に帰る必要はないと思いました。

以前の態度とは全然違いました。

パロの事件やアビメレクの事件、イサクの出産のときは、そんな信念がなくて、失敗しました。

けれども、アブラハムの信仰はやっと成熟しました。神様の計画を信じて前を向きました。振り返ることを拒否しました。

ヘブル書11章にこのように書いてあります。

もし、出てきた故郷の事を思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。

しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(15-16節)

神様は私たちがそのように生きることを望んでおられます。

時々クリスチャンの生活は大変になり、私たちが望むようには人生がうまくいかず、振り返って「クリスチャンになる前の人生はもっと楽だった」と考えてしまうのは簡単なことです。

振り返ると、以前の生活に戻ることも簡単です。私の場合、もし私がいつもハワイを思い続けていたら、ホームシックになり、日本での生活をあきらめることも簡単だったでしょう。

しかし、神様は私たちがいつも振り返ることを望んでおられるのではありません。

神様は前を向いて歩んでほしいと願っておられます。

そして、神様が望んでおられるのは、私たちが神様の備えてくださった道をしっかりと歩み続けることです。

一番簡単な道ではないかもしれません。けれども、結局、一番祝福のある道です。

あなたはどう思うかわかりませんが、私はその道を歩みたいです。

ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリストイエスが私を捕えてくださったのです。

兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。

すなわち、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリストイエスにおいて上に召してくださる神の栄冠をを得るために、目標をめざして一心に走っているのです。(ピリピ3:12-14)

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寄留者と異国人

日本の政府は私が他の惑星から来たと思っています。

証拠があります。日本に引っ越したときに、政府から身分証明書をもらいました。そのカードに書いてあるのは「Certificate of alien registration」ということです。つまり、「宇宙人の登録証明書」と書かれています。

ちょっと冗談ですが、実は、政府がその言葉を翻訳したとき、「宇宙人」と書かずに、「外国人」と書きました。

とはいえ、「alien」を読むたびに、いつも笑ってしまいます。

英和辞典を調べて「Alien」を引くと、いろいろな定義があります。もちろん、二つの定義は「宇宙人」と「外国人」です。

聖書は「寄留者」という語を用いています。

とにかく、アブラハムはカナンに寄留者として住んでいました。神様はアブラハムをカナンに導き、カナンがアブラハムの子孫の遺産になると約束してくださいました。けれども、その時はまだ来ていませんでした。

だから、アブラハムの妻サラが亡くなったとき、葬る場所がありませんでした。それで私有墓地を買わなければなりませんでした。ヘテ人と話したとき、アブラハムはこう言いました。

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。」

そして、ヘテ人は墓地を売りました。

アブラハムも亡くなり、そこで葬られました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、待ち望みました。ヘブル書11章にこのように書かれています。

信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。

彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。。。

これらの人々は皆、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者である事を告白していたのです。

彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めている事を示しています。

もし、出てきた故郷の事を思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。

それゆえ、神は彼らの神と呼ばれる事を恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(へブル書11:9-10,13-16節)

私が日本に引っ越した後、兄はオアフ島からハワイ島に引っ越しました。姉と旦那さんもすぐに引っ越し、その後、私の両親もあそこに引っ越しました。

今、私がオアフ島に帰ったら、家が全然ありません。それはかなり寂しいことです。

私の出身地に帰ると、私が育った家を見たら、知らない人がそこに住んでいて、その家の雰囲気も違います。もう私の家ではないと感じます。

とはいえ、その家は決して私の家ではありませんでした。この世界は短期での居留先です。私たちは寄留者と異国人で、この世界に属していないのです。私たちの本当の家は天国にあります。

だから、あなたの心はどこにあるのでしょうか。この世界にあるのでしょうか。つまり、あなたの焦点はこの世界にありますか。それとも、あなたの本当の家を求めているのでしょうか。

ある人は、天国中心の者はこの世界に役に立たないと思います。けれども、C.S. ルイスはこう言っています。

歴史を読んでみると、現在の世界のために最も熱心に働いたクリスチャンは天国中心のクリスチャンでした。

イエス様の使徒たちはそのようなクリスチャンでした。

奴隷貿易と戦ったイギリスのクリスチャンたちも天国中心のクリスチャンでした。

しかし、今ではクリスチャンたちが天国についてほとんど考えなくなり、この世界で神様のために効果的な器ではなくなりました。(私の言い換え—C.S. ルイスの『キリスト教の精髄』という本からです。)

ルイスの言うとおりです。私たちが天国中心であるならば、私たちの優先順位はすべて正しくなります。

しかし、この世界を最も大切にしたならば、私たちの優先順位と人生はめちゃくちゃになってしまいます。あなたの心はどうでしょうか。あなたの優先順位は正しいでしょうか。

この歌の歌詞が大好きです。

私たちは大使です。
神様のメッセージを携えて、
私たちはしばし留まらなければなりません。

この世を出る前に、
しなければならないことがたくさんあります。

信者となる人はまだたくさんいるでしょう。
私たちの使命は必ず成功するでしょう。
ハデスの門には打ち勝てません。

私たちは寄留者と異国人です。
私たちはこの世界の者ではないのです。

ーーボブ・ハートマン

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神様は良い方です

ある教会で、ワーシップリーダーはよく「神様は良い方です」と言います。

すると、皆は「いつもその通りです」と答えます。

さらに、リーダーが「いつもそうでしょう?」と言うと、皆は「はい。神様は良い方です」と答えます。

その習慣を批判しているわけではありませんが、皆はその言葉の意味を理解して、心から信じているでしょうか。それとも、人生がうまくいく時だけ信じるのでしょうか。

事実は、その言葉を信じるかどうかによって、私たちのクリスチャンとしての生活は形成されます。良い方向に行くかもしれませんし、悪い方向に行くかもしれません。

ある日、アブラハムは深い苦しみに直面したと思います。なぜなら、神様は「あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとして、私に捧げなさい。」と言われました。

アブラハムが25年以上もイサクが生まれることを待ち続けたのに、神様は「全焼のいけにえとして捧げなさい」と言われました。

そう聞いた時、何人の人が「神様は良い方です」と言えるでしょうか。

あなたはどうでしょうか。

おそらく、私は全く言えないと思います。

しかし、アブラハムは従いました。それに遅れることなく、迅速に従ったのです。朝早く、アブラハムとイサクは出かけました。

アブラハムはイサクを縛り、祭壇の上に置き、刀を取って、イサクを殺すために手を伸ばしました。そこまでして従いました。すると、神様はアブラハムを止めてくださいました。

どうしてアブラハムはそこまで従えたのでしょうか。それは、アブラハムにとって「神様は良い方」という言葉がただのキャッチフレーズではなかったからです。

アブラハムはその言葉を本当に信じていました。

アブラハムは神様の約束をよく知っていました。神様はイサクを通して国家を作ると約束されました。

アブラハムが信じていたのは、「神様は良い方だから、決して約束を破られるはずがない」ということです。

「もし神様が私に息子を殺しなさいと命じられたとしても、必ずよみがえらせる」と信じました。

神様はアブラハムをがっかりさせられることはありませんでした。(ヘブル11:19)

創世記22章5節のアブラハムの言葉は本当に重要だと思います。下僕たちに話した時、「私たちはあなたのところに戻ってくる」と言いました。

ヘブル語では、さらに強い言葉で「私たちは必ずあなたのところに戻ってくる」と言っています。

アブラハムは神様が良い方であると信じたからこそ、心を尽くして従ったのです。

あなたはどうでしょうか。神様が良い方であることを本当に信じていますか。本当に信じているでしょうか。

それとも、あなたにとって、それはただのキャッチフレーズなのでしょうか。

心から神様が良い方であることを信じるまでは、私たちは神様に従うことをためらってしまいます。

神様の道が最善かどうかを疑ってしまうのです。

そして、心から神様が良い方であることを信じるまでは、決して神様を喜ばせることはできません。

へブル書の著者こう記しました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル書11:6)

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「私の道」を手放す

イサクが生まれた時、アブラハムは難しい決断に直面しました。サラはイシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それでサラはアブラハムにこう言いました。

「ハガルとイシュマエルを追い出しなさい。」

かなり厳しい言葉でした。アブラハムはイシュマエルのお父さんだったし、その文化では息子を追い出すことは許されていませんでした。

それでも、神様も追い出すように命じられました。それはなぜでしょうか。

一つの可能性として、イサクが生まれてもアブラハムはイシュマエルに長男の祝福特権を与えようと考えていたかもしれません。それは、創世記17章でアブラハムが神様にそのように祈られたからです。

14年もの間イシュマエルだけが息子だったので、アブラハムはイシュマエルを本当に愛していました。しかし、その計画は神様の御心ではありませんでした。

とはいえ、もっと大切な理由があったと思います。イシュマエルは「私の道」という考えを象徴していました。

アブラハムが自分の道を選んだ結果、イシュマエルが生まれました。

神様がすぐに子を与えてくださらなかったとき、アブラハムとサラの信仰は揺らぎ、自分たちの道を進んでしまいました。

サラは女奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルを通してイシュマエルが生まれました。

けれども、アブラハムとサラは間違っていました。彼らの道は神様の道ではありませんでした。

おそらく、神様が言われたかったのは、「『私の道』を放す時だ」ということです。

神様はこう言われました。

「私はイシュマエルを世話する。彼は絶対に大丈夫です。しかし、イシュマエルを手放す時です。自分の計画を放す時です。そして、私と私の計画に心尽くして従う時です。」

だからアブラハムは神様に従いました。

神様は私たちにも同じことを求めておられます。

私たちはよく、神様の道に進みたいと思いつつも、私たちの道を放すことができません。時には、神様のタイミングを待つことができず、アブラハムのように自分の知恵と力で行動しようとしてしまいます。

また、神様の道に進もうとしても、うまくいかないように思える時には、諦めて自分の道に戻ってしまうこともあります。

しかし、神様が私たちに語っておられるのは、「手放しなさい。私に信頼しなさい。私はすべてのことを世話しているのです。」ということなのです。

そして、私たちが関係や仕事、経済を神様に委ねるとき、神様の祝福を知るようになるのです。

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言い訳の余地はない

「でも知らなかった。私の良心はきれいです。」

ゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻を自分の妻として取ったとき、彼はそう言いました。

そして、それは事実でした。アブラハムのほうが悪かったのです。

アブラハムはうそをつきました。つまり、「サラは私の妹だ」と言ったのです。

だから、アビメレクはサラを取りました。

しかし、神様はアビメレクに面と向かってこう言われました。

「あなたが召しいれた女のために、あなたは死ななければならない。あの女は夫のある身である。」

アビメレクは本当に知らなかったのですが、罪を犯しており、その罪を償う必要がありました。

私たちはどれほど多くの罪を知らずに犯しているでしょうか。多分、自分が思っているよりもはるかに多いかもしれません。

だからこそ、日が終わったら「神様、私の心を探ってください」と祈るべきです。そうしないと、私たちが気づかないまま罪を犯して、その罪が神様との関係を妨げるかもしれないからです。

ダビデはそのことをよく知っていたので、こう祈りました。

誰が自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。

どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。

そうすれば、私は全ったき者となり、大きな罪を、免れて、きよくなるでしょう。(詩篇19:12-13)

別の祈りで、ダビデはこのように祈りました。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。

私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」(詩篇139:23-24)

神様、どれほど私が知らずに罪を犯していて、その罪が私たちの関係を妨げることがあるのでしょうか。どうか赦してください。

聖霊の声に対して、私の耳がもっと敏感になりますように。そして、私が罪を犯したら、すぐに気づいて告白できますように。

ダビデが祈ったように、私の隠れた罪をお赦しください。私のうちに傷のついた道があるかどうかを見てください。

傲慢の罪から守ってください。あなたと親しい関係を心から望んでいるからです。アーメン。

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そうすれば、どうなりますか

最近、ある人と話しました。

彼は釣りが大好きです。家族が三重県に住んでいて、彼は単身赴任で大阪に住んでいます。毎週、彼は三重県に家族に会いに帰りますが、ちょっと言い直すと、彼は家族にほとんど会いません。むしろ、釣りをしに行くのです。

笑顔で彼はこう言いました。「私の妻はいつも文句を言って、娘たちと遊んだほうがいいと言われます。」二人の娘がいて、今8歳と10歳です。

彼に会ったばかりだったので、何も言いませんでしたが、言いたかったのは「そうすれば、どうなると思いますか。」ということです。

「釣りをするのは楽しいかもしれませんが、いつもそうしていると、家族の関係はどうなりますか。」と言いたかったのです。

彼は大阪に住んでいて、ほとんど家族に会いません。家に帰っても、家族とあまり時間を過ごさないのです。

ある日、家族の関係が完全にだめになってしまうことに気づくかもしれません。その日はすでに来ているかもしれません。

私たちは皆、人生の決断をします。多くの場合、その決断が良いものだと思うかもしれません。けれども、自分に問いかけなくてはならないのは、「そうすれば、どうなりますか。」ということです。

ロトの娘たちは家系を保ちたかったのです。しかし、ソドムが滅びたとき、その二人の夫はいなくなりました。それに、ロトと娘たちの三人では山に住んでいました。再婚の可能性が全くありませんでした。

そこで、その二人は父を酔わせて彼と寝たのです。家系を保ちましたが、その結果は何でしたか。自分たちと父が堕落してしまったのです。

ロトがそれに気づいたら、どのように感じたでしょうか。ロトもたくさんの悪い決断をしました。

その時、彼は何も持っていませんでした。そして、アブラハムに戻れない理由は何もありませんでした。アブラハムはきっとロトを受け入れたでしょう。

けれども、ロトは恥ずかしく思ったかもしれません。だから、プライドを守ろうとして戻らなかったのです。

ところが、その決断によって、娘たちの行動で、三人のプライドは完全に失われてしまいました。

しかし、素晴らしいことは、どんなにひどい状態に陥っても、神様にはそれを良いことに変える力を持っておられるということです。

ロトの娘はモアブという息子を生みました。

その家系からルツという女性が現れました。ルツは義理の母と共にイスラエルに行き、ボアズという男性と結婚しました。

そして、その二人の子孫を見てみると、誰の名前が見つかるでしょうか。イエス・キリストです。

ロトと娘たちはとても悪い決断をしました。それでも、神様はその悪い状態を良いことに変えてくださいました。

神様は私たちのためにも同じことをしてくださいます。

クリスチャンではない人と結婚して、今結婚問題に直面しているかもしれません。

あなたが家族を無視していて、今妻が離婚したいと思っているかもしれません。

経歴を追い求めるあまり神様から離れた結果、今あなたの人生は虚しくなり、神様があなたを見放したと思うかもしれません。

どんなに人生がめちゃくちゃになっていても、神様は決してあなたを見捨てません。神様はあなたを諦めません。一番ひどい状態にあっても、それを美しいものに変えてくださいます。

だから、神様に立ち返ってください。悪い決断をしたことを認めてください。赦しを求めて祈ってください。そして、神様は助けてくださいます。

神様はその問題を取り去らないかもしれませんが、必ず助けてくださいます。

主のみ前で、へりくだりなさい。そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます。(ヤコブ4:10)

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手放すべき物にまだしがみついている?

数年間前に、NOVAという英会話学校で働きました。日本の中で、一番大きな英会話学校で、あそこで7年ぐらい働きました。

けれども、最後の2~3年間で、少し不穏な傾向に気づきました。一つ目は、NOVAがあまりにも速く拡張しました。

そして、最後の年に、たくさんのNOVAの学校が閉鎖され始め、私の給料も遅れて支払われました。

そのとき、私はNOVAを辞めるべきだったのですが、少し難しかったのです。なぜなら、給料は良かったし、有給休暇がたくさんあったし、働く日と時間が良かったからです。ほかの学校にはそんな良い条件がないと思っていました。

だから、実際に希望がなくても、希望し続けたのです。そして、NOVAは倒産してしまいました。突然、多くの先生が仕事を失い、新しい仕事を見つけるのが非常に難しくなりました。

今は、まあまあ良い仕事がありますが、もっと早くNOVAを辞めていたら、もっと良い仕事が見つけられたかもしれないと思います。

ロトは同じような状況にありました。土地の問題で、ロトはアブラハムから離れました。ロトはソドムを見て、本当に良い所だと思いました。

そして、すぐにソドムのリーダーになったようです。リーダーはいつも都市の門に座り、人々の争いごとを裁いていました。だから、良い所にいて、良い立場がありました。

とはいえ、問題がありました。それは、ソドムが非常に邪悪な都市だったことです。

おそらく、リーダーとして、ロトはソドムに良い例を示そうとしたのでしょう。しかし、ソドムはますます悪くなりました。ペトロはロトについてこう書いています。

無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。

というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。(第2ペテロ2:7-8)

もう一つの問題がありました。ソドムの人たちはロトの考え方に影響を与えました。ロトはソドムに影響を与えるよりも、ソドムがロトに影響を与えました。

この話を読むと、そのことがはっきりと分かります。ソドムの人たちがロトの家を攻撃し、天使を辱めようとしたとき、ロトは何をしましたか。「私のお客さんを辱めないでください。むしろ、私の娘たちを辱めてください」と言ったのです。

もし不敬虔な人たちだけと時間を過ごしていると、また、神様の道を教える人がいないなら、そのような問題がよく起こります。つまり、不敬虔な人の態度と考え方を取ってしまうのです。

ロトはずっと前に出たほうがよかったのです。どうして、そうしなかったのでしょうか。たぶん居心地が良かったからです。

その社会で自分の立場は楽しかったかもしれません。だから、行きたくなかったのかもしれません。希望がなくても、希望し続けたのです。けれども、それは彼と家族にほとんど災害をもたらしました。

天使がロトに裁きのことを注意しても、ロトはためらいました。天使たちはロトと家族を都市から引っ張らなくてはなりませんでした。それでも、ロトは出て行くことにためらったのです。

私たちは、良くないものをどれほど持ち続けているでしょうか。

それは、家族から引き離す仕事かもしれません。

それとも、教会に行けなくさせる仕事かもしれません。

あるいは、クリスチャンではない彼や彼女との関係かもしれません。

あるいは、ポルノかもしれません。

時には良いものさえも、私たちを神様から離れさせることがあります。

例えば、時間を取りすぎる趣味かもしれません。インターネットや本、テレビ、スポーツかもしれません。

それらは基本的に悪いものではありません。

しかし、それが私たちを支配し始めるなら、悪いものとなってしまいます。

私にとって、時々それは問題になります。

あなたはどうでしょうか。あなたは何にしがみついていますか。

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神様の心を反映する

アブラハムは何回も失敗したことがありました。けれども、この箇所を読むと、なぜ神様がアブラハムを選ばれたのかがよく分かります。

なぜなら、この会話のアブラハムの言葉と願いの中に、神様の心にあるものが見えてくるからです。つまり、あわれみを与えようとされる御心です。

神様はアブラハムに言われました。

「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いのです。私は下って行き、私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見ようと思います。私は知りたいのです。」(創世記18:20ー21節)

アブラハムはその結果がよく分かりました。それは裁きでした。

しかし、甥ロトと彼の家族はソドムに住んでいたため、アブラハムはあわれみを求めて祈り始めました。

これは本当に感動する箇所です。

二人の人、すなわち二人の天使はソドムのほうに行きましたが、アブラハムは主の御前に立ち、ソドムを見つめていました。

彼は数分間、静かに立っていたかもしれません。裁きがもうすぐ来ることを知っていたからです。

けれども、アブラハムはおずおずと神様に近づきました。そして、神様の隣に立つと、そっとささやきました。

あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまわれるのですか。

正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため、正しいものと悪いものとが同じようになるというような事を、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。

全世界を裁くお方は、公儀を行うべきではありませんか。(創世記18:23-25)

神様は答えられました。

もしソドムで、私が五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。(26)

1分経ったかもしれません。そして、アブラハムは尋ねたのです。

もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。(28)

神様は答えられました。

滅ぼすまい。もしそこに私が四十五人を見つけたら。(28b)

その会話が続く中で、だんだんアブラハムはその人数を減らしました。50人、40人、30人、20人、最後に10人になりました。

アブラハムはとりなし続けていたら、神様の恵みはどこまで及んでいたでしょうか。1人まででしょうか。

もしかしたら、神様は1人のために町を滅ぼさなかったかもしれません。

なぜ神様は、会話をそこまで継続させたのでしょうか。どうして私は神様が1人のために町を赦したかもしれないと思うのでしょうか。

なぜなら、神様は、いつか裁かなければならなくても、あわれみを与えるのが大好きです。そして、私たちが神様の御心を反映して、あわれみを与えたいなら、神様は喜ばれます。

だから、私たちが人のために祈って、「神様、あわれみを与えてください」と頼んだら、神様はすぐに「はい、そうします」と答えられます。

私たちはどうでしょうか。その情け深くて、あわれみ深い心がありますか。人が神様のあわれみを知って、神様を知るように望みますか。

それとも、全然気にならないでしょうか。

イエス様を知らない人のために、どれほど祈っているでしょうか。

その人のために祈るとき、神様があわれみを与えてくださるように祈っていますか。

それとも、裁きを願って祈っているでしょうか。

それとも、まったく祈っていないでしょうか。

神様はあわれみを与えることを望んでおられます。神様は私たちがその御心を反映することを望んでおられます。

神様を知らない人について考えるとき、あなたはどのように感じるでしょうか。

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苦さと喜び

聖書を読むとき、時々その登場人物の顔を見たいと思います。まるでビデオで録画されたかのように、彼らの表情が分かればいいのにと思います。

例えば、アブラハムとサラが神様の言葉を聞いて笑ったとき、その笑い方が同じだったかどうか知りたいです。

よく分かりませんが、多分違う笑い方だったと思います。

アブラハムが笑ったときは、きっと良い冗談を聞いたときのような笑い方だったのではないでしょうか。

彼は、「ええ?サラが妊娠するの?90歳なのに?それはいい冗談ですね。もうひとつ面白い話を聞かせてください。」と言ったかもしれません。

しかし、サラが笑ったときは、少し苦い感じがあったのではないでしょうか。彼女は神様の約束をよく知っていました。何十年も前から聞いていたことでした。けれども、まだ赤ちゃんは来ていませんでした。

その間に彼女は非常に恥を感じました。自分の女奴隷が彼女を侮辱しました。それでも、もう一度神様は約束をされました。

サラの反応は?彼女はこう言ったかもしれません。

「まさか!何度もその約束を聞いたけれど、何も起こりませんでした。今となっては私はもう老いぼれています。それでも赤ちゃんを生むというのですか?主人も年寄りなのに?まさか!信じられません。」

神様の約束を成就するために待たなければならないとき、苦い思いが浮かぶことは簡単です。

神様に従っているにもかかわらず、まだ祝福を受けていないとき、心が苦くなることは簡単です。

祝福が決して訪れないと思うことも簡単です。神様が約束を守らないと思うことはさらに簡単です。

その時、私たちはどうするでしょうか。約束を信じ続けるでしょうか。神様が私たちを祝福されることを信じ続けるでしょうか。それとも、諦めてしまうのでしょうか。

アブラハムとサラの信仰は時々動揺しました。けれども、結局、彼らは神様を信じ続けました。そして、神様の祝福を知ることができました。

アブラハムとサラの信仰が時々動揺したにもかかわらず、神様はその二人に恵みを与え、息子を授けられました。

そして、不信仰から生まれた苦い笑いは、喜びの笑いに変わったのです。

その時、サラはこう言いました。

神は私を笑われました。聞く者は皆、私に向かって笑うでしょう。

誰がアブラハムに、「サラが子供に乳を飲ませる」と告げたでしょう。

ところが私は、あの年寄りに子を産みました。(創世記21:6ー7)

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無理なことができる神様

6月から、少し眠ることが難しくなりました。

どうしてなのか分からないのですが、一週間に2回ほど、十分に眠れない日が続いています。一度だけですが、全く眠れなかった日もありました。特に大きなストレスがあるとは思いません。

体力的な問題なのか、霊的な問題なのか、よく分かりません。一つの可能性として、蒸し暑さが原因かもしれません。いずれにせよ、私にとっては、初めてこのような問題が生じたのです。どうしてなのでしょうか。

眠れない夜があると、その次の夜には少しストレスを感じます。つまり、「今晩は眠れるだろうか」と考えてしまいます。

しかし、そう考えることでリラックスできず、また眠れなくなってしまうのです。

けれども、この箇所を読みながら、神様がどんなことでもできる方であることを思い出したいです。不眠症すらも癒せる方です。

この箇所で、神様は初めてご自身を全能の神として紹介されました。おそらく、アブラハムにとって神様の約束を信じることは難しかったからでしょう。

アブラハムは99歳で、まだ子どもがいませんでした。サラも年を重ねており、子どもを産むことができない状態でした。神様がサラを通して赤ちゃんを授けるという約束は、非常に信じがたいものでした。

だからこそ、神様が現れた時に「私は全能の神です」と言われました。

つまり、「あなたの状況は不可能のように思えるかもしれないが、私は何でもできるのです」と。

それでも、アブラハムにとっては、神様がその約束を守られることは信じがたいものでした。そこで、アブラハムは笑いながら提案したのです。

「イシュマエルがいます。約束を果たすために彼を使ってください。」

しかし、神様は断られました。

「いや。私が約束したように私はやります。あなたは無理だと思うかもしれないが、私は何でもできます。」と言われました。

さて、眠れない話に戻ります。どうして時々きちんと眠れないのか分からないのです。そして、心配することは簡単です。もし、「全然心配していない」と言えば、それは嘘になるでしょう。

正直に言うと、あなたの祈りがほしいです。特に日曜日の夜のために祈ってください。なぜか日曜日は特に大変なのです。

神様が私に平安を与えてくださるように祈ってください。そして、神様が私の問題を癒してくださるように祈ってください。

神様、あなたは何でもできる方です。あなたは私を見ておられる神です。あなたは私を聞いてくださる神です。私の不眠症の問題と私の心配をよく知っておられます。

私が寝るときに平安を与えてください。原因は分からないけれども、あなたは分かっておられます。だから助けてください。

あなたが無理なことをできる神であることを信じます。アブラハムにとっても、あなたは無理なことができる神でした。今でも何でもできます。

私がそのことを信じることができますように。アーメン。