聖書を読むとき、時々その登場人物の顔を見たいと思います。まるでビデオで録画されたかのように、彼らの表情が分かればいいのにと思います。
例えば、アブラハムとサラが神様の言葉を聞いて笑ったとき、その笑い方が同じだったかどうか知りたいです。
よく分かりませんが、多分違う笑い方だったと思います。
アブラハムが笑ったときは、きっと良い冗談を聞いたときのような笑い方だったのではないでしょうか。
彼は、「ええ?サラが妊娠するの?90歳なのに?それはいい冗談ですね。もうひとつ面白い話を聞かせてください。」と言ったかもしれません。
しかし、サラが笑ったときは、少し苦い感じがあったのではないでしょうか。彼女は神様の約束をよく知っていました。何十年も前から聞いていたことでした。けれども、まだ赤ちゃんは来ていませんでした。
その間に彼女は非常に恥を感じました。自分の女奴隷が彼女を侮辱しました。それでも、もう一度神様は約束をされました。
サラの反応は?彼女はこう言ったかもしれません。
「まさか!何度もその約束を聞いたけれど、何も起こりませんでした。今となっては私はもう老いぼれています。それでも赤ちゃんを生むというのですか?主人も年寄りなのに?まさか!信じられません。」
神様の約束を成就するために待たなければならないとき、苦い思いが浮かぶことは簡単です。
神様に従っているにもかかわらず、まだ祝福を受けていないとき、心が苦くなることは簡単です。
祝福が決して訪れないと思うことも簡単です。神様が約束を守らないと思うことはさらに簡単です。
その時、私たちはどうするでしょうか。約束を信じ続けるでしょうか。神様が私たちを祝福されることを信じ続けるでしょうか。それとも、諦めてしまうのでしょうか。
アブラハムとサラの信仰は時々動揺しました。けれども、結局、彼らは神様を信じ続けました。そして、神様の祝福を知ることができました。
アブラハムとサラの信仰が時々動揺したにもかかわらず、神様はその二人に恵みを与え、息子を授けられました。
そして、不信仰から生まれた苦い笑いは、喜びの笑いに変わったのです。
その時、サラはこう言いました。
神は私を笑われました。聞く者は皆、私に向かって笑うでしょう。
誰がアブラハムに、「サラが子供に乳を飲ませる」と告げたでしょう。
ところが私は、あの年寄りに子を産みました。(創世記21:6ー7)
