アブラハムは何回も失敗したことがありました。けれども、この箇所を読むと、なぜ神様がアブラハムを選ばれたのかがよく分かります。
なぜなら、この会話のアブラハムの言葉と願いの中に、神様の心にあるものが見えてくるからです。つまり、あわれみを与えようとされる御心です。
神様はアブラハムに言われました。
「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、彼らの罪はきわめて重いのです。私は下って行き、私に届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見ようと思います。私は知りたいのです。」(創世記18:20ー21節)
アブラハムはその結果がよく分かりました。それは裁きでした。
しかし、甥ロトと彼の家族はソドムに住んでいたため、アブラハムはあわれみを求めて祈り始めました。
これは本当に感動する箇所です。
二人の人、すなわち二人の天使はソドムのほうに行きましたが、アブラハムは主の御前に立ち、ソドムを見つめていました。
彼は数分間、静かに立っていたかもしれません。裁きがもうすぐ来ることを知っていたからです。
けれども、アブラハムはおずおずと神様に近づきました。そして、神様の隣に立つと、そっとささやきました。
あなたは本当に、正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。本当に滅ぼしてしまわれるのですか。
正しい者を悪い者と一緒に殺し、そのため、正しいものと悪いものとが同じようになるというような事を、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。
全世界を裁くお方は、公儀を行うべきではありませんか。(創世記18:23-25)
神様は答えられました。
もしソドムで、私が五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。(26)
1分経ったかもしれません。そして、アブラハムは尋ねたのです。
もしや五十人の正しい者に五人不足しているかもしれません。その五人のために、あなたは町の全部を滅ぼされるでしょうか。(28)
神様は答えられました。
滅ぼすまい。もしそこに私が四十五人を見つけたら。(28b)
その会話が続く中で、だんだんアブラハムはその人数を減らしました。50人、40人、30人、20人、最後に10人になりました。
アブラハムはとりなし続けていたら、神様の恵みはどこまで及んでいたでしょうか。1人まででしょうか。
もしかしたら、神様は1人のために町を滅ぼさなかったかもしれません。
なぜ神様は、会話をそこまで継続させたのでしょうか。どうして私は神様が1人のために町を赦したかもしれないと思うのでしょうか。
なぜなら、神様は、いつか裁かなければならなくても、あわれみを与えるのが大好きです。そして、私たちが神様の御心を反映して、あわれみを与えたいなら、神様は喜ばれます。
だから、私たちが人のために祈って、「神様、あわれみを与えてください」と頼んだら、神様はすぐに「はい、そうします」と答えられます。
私たちはどうでしょうか。その情け深くて、あわれみ深い心がありますか。人が神様のあわれみを知って、神様を知るように望みますか。
それとも、全然気にならないでしょうか。
イエス様を知らない人のために、どれほど祈っているでしょうか。
その人のために祈るとき、神様があわれみを与えてくださるように祈っていますか。
それとも、裁きを願って祈っているでしょうか。
それとも、まったく祈っていないでしょうか。
神様はあわれみを与えることを望んでおられます。神様は私たちがその御心を反映することを望んでおられます。
神様を知らない人について考えるとき、あなたはどのように感じるでしょうか。
