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創世記

「私の道」を手放す

創世記21:1-20

イサクが生まれた時、アブラハムは難しい決断に直面しました。サラはイシュマエルがイサクをからかっているのを見ました。それでサラはアブラハムにこう言いました。

「ハガルとイシュマエルを追い出しなさい。」

かなり厳しい言葉でした。アブラハムはイシュマエルのお父さんだったし、その文化では息子を追い出すことは許されていませんでした。

それでも、神様も追い出すように命じられました。それはなぜでしょうか。

一つの可能性として、イサクが生まれてもアブラハムはイシュマエルに長男の祝福特権を与えようと考えていたかもしれません。それは、創世記17章でアブラハムが神様にそのように祈られたからです。

14年もの間イシュマエルだけが息子だったので、アブラハムはイシュマエルを本当に愛していました。しかし、その計画は神様の御心ではありませんでした。

とはいえ、もっと大切な理由があったと思います。イシュマエルは「私の道」という考えを象徴していました。

アブラハムが自分の道を選んだ結果、イシュマエルが生まれました。

神様がすぐに子を与えてくださらなかったとき、アブラハムとサラの信仰は揺らぎ、自分たちの道を進んでしまいました。

サラは女奴隷ハガルをアブラハムに与え、ハガルを通してイシュマエルが生まれました。

けれども、アブラハムとサラは間違っていました。彼らの道は神様の道ではありませんでした。

おそらく、神様が言われたかったのは、「『私の道』を放す時だ」ということです。

神様はこう言われました。

「私はイシュマエルを世話する。彼は絶対に大丈夫です。しかし、イシュマエルを手放す時です。自分の計画を放す時です。そして、私と私の計画に心尽くして従う時です。」

だからアブラハムは神様に従いました。

神様は私たちにも同じことを求めておられます。

私たちはよく、神様の道に進みたいと思いつつも、私たちの道を放すことができません。時には、神様のタイミングを待つことができず、アブラハムのように自分の知恵と力で行動しようとしてしまいます。

また、神様の道に進もうとしても、うまくいかないように思える時には、諦めて自分の道に戻ってしまうこともあります。

しかし、神様が私たちに語っておられるのは、「手放しなさい。私に信頼しなさい。私はすべてのことを世話しているのです。」ということなのです。

そして、私たちが関係や仕事、経済を神様に委ねるとき、神様の祝福を知るようになるのです。

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