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創世記

近視的

創世記25章

子供の頃、私の家族はみんな眼鏡をかけていました。

どうしてかはわからないけれど、私は少し羨ましく思っていました。

かっこいいと思ったので、目を大事にせずに過ごし、小学校二年生のときから眼鏡が必要になりました。

これまでにたくさんの眼鏡やコンタクトレンズを買ってきました。目を大事にしなかったことを本当に後悔しています。

エサウは自分の将来に対して、かなり近視的でした。

長男として、いろいろな特権がありました。彼の遺産は兄弟の遺産の二倍だったし、イサクが亡くなったら、エサウは家族のリーダーになるべきで、神様がアブラハムとイサクに約束された祝福を受け継ぐべきでした。

でも、エサウはその特権を軽蔑しました。彼は現在の欲望を優先し、その特権にはあまり価値がないと思いました。だから、一瞬で、レンズ豆の煮物のためにすべてをヤコブに与えました。

エサウを批判するのは簡単ですけど、私たちはどれくらいイエス・キリストにおける遺産を軽視しているでしょうか。

どれくらい私たちは現在の必要と欲望を天の遺産より優先しているでしょうか。私たちは自分のキャリアを追求し、お金を追い求め、物を追い求める中で、一番大切なことを忘れがちです。

結局、この世界から天国に持っていけるのはたった2つだけです。つまり、神様との関係と神様を知っている人たちとの関係です。

この2つのものは永遠です。天国の遺産の大部分を構成するのは、この2つのものです。

この世界の残りは埃になり、なくなります。だから、こんな一時的なものに、なぜそんなに焦点を当てるのでしょうか。

ヨハネはこう書きました。

世界も、世にあるものも、愛してはなりません。

もし誰でも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

すべての世にあるもの、すなわ ち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(ヨハネの手紙第一2:15ー16)

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