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創世記

不十分です

創世記28:1ー9

この箇所を読んだら、私が考えるのは、両親に対するエサウの反応が、神様に対する多くの人々の反応と似ているということです。

エサウは神様に従わないヘテ人と結婚して、イサクとリベカを悲しませました。しかし、エサウは両親の思いを全く理解していませんでした。

けれども、ヤコブを祝福したときに、イサクは「カナン人と結婚してはならない」と言いました。

エサウはそれを聞いて、両親の思いを理解するようになりました。

それで、父の好意を得るために、エサウは両親が受け入れる女性と結婚しようと考えました。

もちろん、ヤコブが向かった地には行けなかったため、イシュマエルの子孫の中に行きました。けれども、イサクとリベカがそれを喜んだかどうかは分かりません。

同様に、多くの人々は知らずに神様の心を傷つけます。しかし、理解できるようになると、彼らが考えるのは、「もし良いことをすれば、大丈夫になる。神様は私たちを赦してくださいます」ということです。

けれども、イザヤ64:6には、こう書かれています。

私たちは皆、汚れた者のようになり、私たちの義は皆、不潔な着物のようです。

私たちは皆、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

つまり、良いことをしても、神様の目の前では不十分です。その良いことは罪の染みをきれいにすることができません。どうしてでしょうか。

想像してみてください。ある夫は悪いことをして、その妻はとても怒っています。だから、夫はプレゼントを渡して、「許してください」と言います。

でも、妻がプレゼントを開けたら、それは汚れたぼろです。彼女の反応はどう思いますか。

同様に、私たちの義は汚れたもののようです。

「汚れた着物」という言葉は本当に厳しい言葉です。直訳してみると、「使っていた生理用ナプキン」という言葉になります。

誰がそれを受け入れるでしょうか。

神様がそれを受け入れてくださるでしょうか。

いいえ、決してそのようなことはありません。

けれども、多くの人々はそのように考えます。彼らは「もし良いことをすれば、神様は私たちを受けて入れてくださる」と思います。

しかし、その考え方は間違っています。

もう一つの例を挙げてみましょう。私は二歳の娘のキスが大好きです。けれども、娘がスパゲッティを食べていて、ソースが口の周りについていると、そのキスは全く欲しくありません。それは汚れたキスだからです。

そのように、私たちが神様にいろんなことを捧げようとしても、それらが私たちの罪で汚れているならば、神様は受け入れてくださいません。

では、私たちの罪はどのように清められるのでしょうか。一つの方法しかありません。それは、イエス・キリストの十字架で流された血によってのみ清められるのです。ローマ書5章にはこう書かれています。

私たちがまた弱かったとき、キリストは定められたときに、不敬虔な者のために死んで下さいました。

正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け 深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちに対するご自身の愛を明らかにしておら れます。

ですから、今すでにキリスト血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

もし敵であった私たち が、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼の命によって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

そればかりでなく、私 たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエスキリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(6ー11節)

私たちは自分を救う力を持っていませんでした。どんなことをしようとしても、私たちの行動は罪で汚れているのです。

しかし、私たちが弱いときに、イエス様は十字架で死んでくださり、私たちの罰を受けてくださいました。だから、イエス様の行動によって、私たちは神様の怒りから救い出されました。そして、それにより、神様と和解することができました。

私たちの行動ではなく、イエス様が十字架で成し遂げてくださった行動によるものです。

だから、心に留めておきましょう。良い行動によって、神様の好意を得ることはできません。私たちの行動は罪によってあまりにも汚れているのです。

もしあなたが神様に受け入れていただきたいのであれば、まずあなたの罪は清められなければなりません。そのためには、イエス・キリストの十字架の働きを信じなければなりません。

イエス様とその働きに信頼してみませんか?

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