私は、エサウの許しに対するヤコブの反応が、神様の赦しに対する多くの人の反応と似ていると思います。
ヤコブはエサウの許しを買おうとしましたが、最終的には、神様がその問題をすでに解決してくださったことが分かるようになりました。
エサウがまだ怒っていると思い込んでいましたが、彼が来たときには、涙を流し、手を伸ばして、走り寄り、ヤコブを抱きしめました。
その後、エサウが「私の家に行きましょう。私の家族を紹介したいです」と言いましたが、ヤコブはこう断ります。
「ありがとうございます。けれども、私の家族と家畜を早く連れて行くのは難しいので、どうぞお先に行ってください。後で会いましょう。」と。
そして、エサウが「私が連れている者を幾人か、あなたの助けに残しておきましょう」と提案しましたが、ヤコブは再びこう断ります。
「それは結構です。大丈夫です。また後でお会いしましょう。」と。
そして、エサウはその場を去りましたが、ヤコブはついて行かず、別の場所へ向かいました。
なぜでしょうか?エサウはヤコブを許していました。それなのに、恐れる必要がもうないことにヤコブは気づいていませんでした。
彼はそのことを理解していたかもしれませんが、心の奥底には、疑いの種が残っていたのではないでしょうか。
「エサウは本当に私を許したのだろうか。あんなにも悪いことをしたのに、私を許しただろうか。
それはあり得ない。以前、あれほどエサウは怒っていたし、私を殺したいとまで思っていたのに。本当に許してくれたのだろうか?」
そのため、ヤコブはエサウとの距離を保ち続けたのです。
私たちはどれほどそのようなことをしているでしょうか。神様の赦しを買うために、教会に行ったり、十一献金を捧げたり、さまざまな良いことをします。
しかし、イエス様が私たちの罪のために罰を受けてくださり、私たちがすでに赦されていることに気づいていないのです。
そのため、私たちは恐れて神様に近づこうとしません。
けれども、私たちが目を上げると、怒っている神様を見るのではありません。むしろ、神様は私たちに向かって走ってきて、涙を流しながら手を伸ばし、私たちを抱きしめてくださるのです。
それでも、赦しが与えられたことが分かっても、私たちの心には、疑いの種が残っていることがあります。
「神様は本当に私を赦してくださったのだろうか?私は本当に悪かったのに。まだ罪と戦っているのに。本当に私を赦してくれるのだろうか?」
そのため、私たちは神様に近づかなくなり、神様から距離を置き、神様の罰を恐れて待つのです。
しかし、神様はそのようなお方ではありません。
ローマ書8:1には、「こういう訳で、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」と書かれています。
さらに、ローマ書8:33–34にはこう書かれています。
神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。神が義と認めてくださるのです。
罪に定めようとするのは誰ですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
パウロが問うたのは、「神に選ばれた人々を訴えるのは誰ですか。」ということです。
それは神様ではありません。
神様は義と認めてくださるのです。
「罪に定めようとするのは誰ですか。」
それはイエス様ではありません。
イエス様は私たちの罪のために十字架で死んでくださいました。そして今も、イエス様は私たちのために祈っておられます。
イエス様が私たちの弁護士であり、私たちのためにとりなしてくださっているのに、神様が裁判官として「無罪」と宣言してくださるなら、どうして私たちは恐れる必要があるのでしょうか。
ですから、神様を恐れて生きるのではなく、むしろ、神様を愛することを学びましょう。
ヨハネはこう言っています。
愛には恐れがありません。全 き愛はおそれを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。
神がまず私たちを愛してくださったからです。(第一ヨハネ4:18ー19)
あなたが神様の愛と赦しを深く知ることができますように。
