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創世記

苦しむときになんで神様は沈黙しているか

創世記46:1ー4

聖書には、神様の民の苦しみについて数多くの物語があります。とはいえ、ヤコブほど苦しんだ人はいないと思います。

もちろん、ヨブの苦しみはもっと強烈だったかもしれません。けれども、その苦しみの期間はもっと短かったように感じます。(私の印象であり、間違っているかもしれませんが。)

多くの預言者たちは迫害を受けました。神様の言葉を伝えるために、多くの預言者が命を失いました。けれども、神様は沈黙しておられませんでした。神様は預言者たちと頻繁に対話されていました。

しかし、ヤコブの場合はまったく異なります。

創世記46章を読んで、一つ心に残ることがあります。神様はヤコブにこう言われました。

「私自身があなたと一緒にエジプトに下り、また、私自身が必ずあなたを再び導き上げる。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

これは確かに心強い言葉です。

けれども、それ以前の20年間、神様はどこにおられたのでしょうか。

その20年間、神様からの慰めの言葉はどこにあったのでしょうか。

なぜ、「ヨセフはまだ生きている」と知らせなかったのでしょうか。

ヨセフが奴隷として売られ、エジプトの支配者になるまで13年が経ちました。

そして、エジプトに7年間の大豊作がありました。

その後、飢饉が始まり、さらに2年が過ぎた頃、ヨセフの兄たちはエジプトに行き、ヨセフが自分のことを明かしました。

それからやっと、ヤコブはヨセフがまだ生きていることを知りました。

なぜ神様はこの期間、一言も言ってくださらなかったのでしょうか

ヤコブは息子たちに騙され、ヨセフが死んだと思い込み、慰めを拒んで泣き苦しみ続けていました。彼はこう言いました。

「私は、泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい。」(創世記37:35)

何年経っても、その痛みが癒えることはありませんでした。そして20年後、その悲劇はヤコブの決断に大きな影響を与えました。

ベニヤミン(ヤコブが愛していた妻ラケルの最後に残った息子)を兄弟たちとともにエジプトに送ることを拒んだのです。なぜなら、彼も死ぬかもしれないと考えたからです。

そして、兄弟たちが「ベニヤミンはエジプトに行かなくてはならない」と言った際、ヤコブはこう答えました。

「私の子は、あなた方と一緒に行かせない。彼の兄は死に、彼だけが残っているのだから。あなた方の行く道中で、もし彼に災いがふりかかれば、あなた方は、この白髪頭の私を悲しみながらよみに下せることになるのだ。」(創世記42:38)

状況がさらに悪化してどうしようもなくなったとき、ヤコブはついにベニヤミンをエジプトに送る許可を与えました。そして、こう言いました。

「私も失うときには、失うのだ。」(創世記43:14)

それでも、神様はこの間、一言も言ってくださいませんでした。

苦しむ時、困難であっても、私たちは神様の臨在を感じることがあります。

神様が近くにおられるという感覚を持ち、神様の慰めを経験します。さらには神様の声を聞くこともあります。

そのため、苦しみの中でも、私たちの試練は耐えられるものとなるのです。

けれども、ある時には、神様が沈黙しているように感じることがあります。祈りが天井に届かず、問いかけても答えが来ないのです。そして、神様が非常に遠く感じられることもあります。

ヤコブは20年間、そのような苦しみを経験しました。

それでも、ヤコブには見えなかったものがありました。実際には神様は働いておられたのです。

ヤコブには見えなかったのですが、神様はヤコブとその家族を救う計画を持っていました。神様は沈黙しておられるように見えても、ヤコブへの愛を持ち続けておられました。

その20年間、神様はヤコブの家族の中で働いておられました。

ヨセフの中でも働いておられました。

ヨセフの兄弟たちの中でも働いておられました。

さらにヤコブの中でも働いておられました。ただヤコブはその事実を見ることができなかったのです。

しかし、それを見ることができた時、その何十年もの悲しみは重荷のように取り除かれ、再び喜びを味わうことができました。

あなたは今、苦しんでいるかもしれません。そして、神様が遠く感じられるかもしれません。神様があなたを愛していないのではないかと思うかもしれません。神様があなたを捨てたと思うかもしれません。

けれども、神様はヤコブを捨てられませんでした。同じように、神様はあなたをも決して捨てていません。

神様は今も働いておられます。神様は今もあなたの叫びを聞いておられます。そして、神様はあなたのために計画を持ち続けておられます。

ですから、どうか神様にしがみついてください。

一ヶ月かかるかもしれません。一年間かかるかもしれません。二十年間かかるかもしれません。あるいは、一日だけかもしれません。

それでも、もう一度、あなたの人生における神様の働きを見ることができる時が必ず来るでしょう。だからこそ、どうか諦めないでください。

パウロはこう書いています。

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。

それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。(ローマ 5:3ー5)

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