「私の人生だよ。」
「私の体だよ。私がしたいことをする権利がある。」
ある人々は、自分の罪を正当化しようとする時に、このような言葉をしばしば口にします。けれども、それは本当に正しいのでしょうか。
エジプト人は飢饉によって苦しみ、全地が衰え果てていました。飢饉の厳しさの中で、彼らはヨセフに向かって「助けてください」と叫びました。
そこでヨセフは穀物を売り、彼らの切実な要求に応えました。しかし、人々のお金が尽きると、次に家畜を差し出して穀物を買いました。
それでも飢饉が続き、すぐに家畜を売り尽くしてしまいました。飢饉が終わらないと思われ、人々は絶望に陥り、ついにこう言いました。
私たちはあなた様に何も隠しません。
私たちの銀も尽き、家畜の群れもあなた様のものになったので、私たちの体と農地のほかには、あなた様の前に何も残っていません。
私たちはどうして農地と一緒にあなた様の前で死んで良いでしょう。
食物と引換に私たちと私たちの農地とを買い取ってください。私たちは農地と一 緒にパロの奴隷となりましょう。
どうか種をください。そうすれば私たちは生きて、死なないでしょう。そして、土地も荒れないでしょう。(創世記47:18ー19)
だから、エジプト人は皆、パロのものになったのです。彼らの土地も、彼らの人生もパロのものとなりました。けれども、その結果、彼らは飢饉から救い出されたのです。
同じように、私たちも罪のために朽ち果てていました。エジプト人と同じく、私たちには自分自身を救う術がありませんでした。
多くの人々は神様の好意を得ようとしましたが、結局、どれだけ努力しても、私たちの支払いでは十分ではありませんでした。私たちの罪があまりにも多かったからです。
そこで、神様は私たちのために行動してくださいました。ローマ書5:6にはこう記されています。
私たちはまだ弱かったとき、キリストは定められたときに、不敬虔な者のために、死んで下さいました。
どうしてイエス様は私たちのために死んでくださったのでしょうか。
それは、私たちの罪のために罰を受けてくださったからです。その死を通して、神様はご自身の民として私たちを買い取ってくださいました。
黙示録5:9には、イエス様について次のように記されています。
あなたは、巻物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖いました。
また、第一ペテロ1:18―19にはこう記されています。
ご承知のように、あなた方が先祖から伝わった虚しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちるものにはよらず、傷ももなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
だから、私たちにとって、それはどういう意味を持つのでしょうか。
答えは第一コリント6:19―20に記されています。
あなた方は、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなた方は、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体を持って、神の栄光を現しなさい。
つまり、クリスチャンはもはや「私の体だ」とか「私の人生だ」とか「何をしたいことをする権利がある」と言うことはできません。
私たちはクリスチャンになった時、神様がイエス様の血によって私たちを買い取ってくださいました。そのため、私たちは自分自身のものではなく、神様のものとなったのです。
あなたはどのように生きていますか。自分自身のものとして生きていますか。お金や時間、そして人生を自分自身のもののように扱っていませんか。
あなたの人生は自分自身のものではありません。あなたの時間も、お金も、自分自身のものではないのです。
あなたは代価を払って買い取られたのです。ですから、その事実にふさわしい生き方をしましょう。
私たちは声を上げます。
私たちは手を伸ばします。
私たちは自分の人生を
あなたに捧げます。
私たちは供え物です。主よ、どうか私たちの声を用いてください。
私たちの手を用いてください。
私たちの人生を用いてください。
私たちは供え物です。私のすべての持ち物、
私たちの全存在、
そして私たちの希望を、
あなたに捧げます。
私たちは供え物です。ーークリス・クリスチャン
