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出エジプト記

神様のユーモア

神様の冗談?

時々、人々は、神様がユーモアの感覚を持っておられるかどうかと思います。

あるコメディアンは答えました。

「もちろん神様はユーモアの感覚を持っておられる。カモノハシを見たことがありますか。それは冗談かミスです。しかし、神様はミスをされない。」

私はカモノハシが神様の冗談かどうか分かりませんが、神様はユーモアの感覚を持っておられると思います。

2章で、神様のユーモアがはっきり見えると思います。

パロはすべてのヘブル人の赤ちゃんを殺すように命じました。けれども、ある日、パロの娘が帰ってきて、「ただいま!」と言いました。

そしてパロの頬にキスして、「私が見つけたものは何だと思いますか?」と言いました。

「何?」

「川に入ったときに、カゴを見ました。それを開けたら、すごく可愛い男の子がいました。」

「え?男の子?カゴに?川で?」

「そうです。ヘブル人の赤ちゃんです。私は養子にします。」

パロの宮殿で、どんな混乱があったか、想像できますか。

「絶対ダメです。すべてのヘブル人の男の子が殺されるように命じました。その赤ちゃんをこちらに連れてきなさい。今すぐ殺します。」

「お父様はひどいです!赤ちゃんはとてもかわいくて、無力です。その赤ちゃんが欲しいのです。ある女の人にその赤ちゃんを世話するためにお金を払います。モーセはいい名前でしょう。」

「分かった。分かった。一人のヘブル人は別に構わないでしょう。」

パロは、後で、びっくりしたでしょうね。:)

神様はパロの家にヘブル人を救い出す人を連れて来られました。パロの息子として、訓練と教育を受けました。そして、その勉強したことでイスラエルの民をリードしました。

私は神様の考え方を想像できます。

「私の民を奴隷にするのでしょうか。そして、ヘブル人の男の子を殺すのでしょうか。私はどうしようかなあ。そうですねえ。ああ、分かりました。パロの娘は川のそばにいます。完璧。じゃあ、このカゴをちょっと右のほうに押したら…」

パロの娘がお父さんにこの話をしたときに、私は神様の笑いを想像できます。

神様がユーモアの感覚を持っておられること以外に、私たちは何を学べますか。

私たちの人生はどんなにひどくても、神様は支配しておられます。

モーセの両親は必死でした。自分の息子をパロの命令から守りたかった。三ヶ月ぐらいモーセを隠していましたが、結局、隠すのが無理になりました。

だから、祈りながら、川の上にモーセを送りました。しかし、神様はその状態を見て、その祈りに答えてくださり、彼らの圧制者と戦ってくださいました。

あなたはどうですか。大変な状態にありますか。希望がないと思いますか。

どんな状態にあっても、神様は支配しておられることを覚えておきましょう。もし、神様に向かうなら、必ず助けてくださいます。

第一コリント10:13に書いてあるように、

あなた方の会った試練はみな人の知らないようなものではありません。

神は真実な方ですから、あなた方を耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。

むしろ、耐えることのできるように、試練と共に、脱出の道を備えて下さいます。

あなたはどんな試練に直面しても、神様があなたに耐えられないような試練に会わせることはありません。

神様はあなたを一人で立たせることはなく、むしろ、脱出の道をすでに備えてくださいます。

もし、あなたが神様を求めるなら、その道を見つけることができます。

けれども、あなたは神様を求めているのですか。

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出エジプト記

誰を恐れていますか

モーセはこの箇所を書きながら、思わず笑みを浮かべていたのではないでしょうか。特に、ヘブル人の助産婦シフラとプアの話です。

エジプトで最も権威のある者、パロは、その二人にヘブル人の男の子を殺すよう命じました。

けれども、この助産婦たちがその命令に従わなかったと聞いたとき、パロは彼女たちを呼び寄せました。

そして言いました。「どうして、私の命令に従わなかったのか。」

そして、その二人は真剣な顔で答えました。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前にすでに産んでしまうのです。」

私はその場面を思い描くことができます。パロはこれを聞いて、「ああ、なるほど。知らなかった。初めてそんなことを聞いた。活力なのか。なるほど。」と言ったかもしれません。

どうして、この二人はパロに敵対する勇気があったのか。その二人は神様をパロより恐れていたからです。

17節にこう書いてあります。

しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じた通りにはせず男の子を生かしておきました。

そして、神様はその二人を祝福してくださったのです。

20-21節によれば、

神はこの助産婦たちに良くしてくださった。それで、イスラエルの民は増え、非常に強くなった。助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。

あなたは誰を恐れていますか。あなたにとって、一番尊敬する人は誰ですか。神様でしょうか。それとも、別の人でしょうか。

時々、私たちは人々の反応を恐れるので、神様との関係に影響を及ぼします。

私の友だちはずっとバプテスマを受けるのを伸ばしていました。なぜなら、彼女のご両親の反応を恐れていたからです。

もう一人の友だちはクリスチャンになることをずっと伸ばしていました。なぜなら、ご主人の反応を恐れていたからです。

しかし、その二人が神様を、ご主人やご両親以上にうやまったなら、神様は彼女たちを祝福してくださるでしょう。

もし、神様を他の人々より恐れたら、トラブルが全然起こらないと言っているのではありません。

その選択をして、ある人はあなたに対して怒るかもしれません。

ある友だちは、仕事よりも神様を大切にしたため、同僚が本当に怒りました。もっと残業をしてほしいと言われましたが、彼は拒みました。神様が彼に別の働きを命じておられたからです。

結局、彼はその会社をやめました。けれども、神様はその選択を喜ばれると思います。

神様はイザヤに言われました。

まことに主は強い御手を持って私を捕らえ、私にこう仰せられた。この民の道に歩まないよう、私を戒めて仰せられた。

「この民の恐れるものを恐れるな。おののく な。万軍の主、この方を、聖なる方とし、この方を、あなた方のおののきとせよ。そうすれば、この方が聖所となられる。」(イザヤ8:11ー14)

神様はあなたにとって聖所となられます。状態が辛くて、皆があなたに反対するときに、主に走ることができます。

しかし、神様は私たちに注意されます。「この世の道を歩んではなりません。」

むしろ、私たちは神様を恐れて、従うべきです。

そうすれば、神様はその助産婦を祝福してくださったように、あなたも祝福してくださいます。

あなたは誰を恐れているのでしょうか。

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創世記

本当に赦された

ヨセフの人生には涙を流す理由が数多くありました。

エジプトの奴隷として売られた時。

レイプの濡れ衣を着せられて監獄に入れられた時。

兄たちが初めてエジプトに来て、ヨセフが過去に直面した時。

久しぶりにベニヤミンに会った時、

そして、ヤコブに会った時。

そして、ヤコブが亡くなった時。

とはいえ、ヨセフにとって最も心が辛かった涙は、その後に流れたのかもしれません。

ヤコブが亡くなった後、ヨセフの兄たちは彼にメッセージを送りました。

「何年も前、私たちはあなたに対して罪を犯しました。けれども、亡くなる前に、お父さんは『兄たちを許してください』と言っていました」と。

ヨセフは、その言葉を聞いて泣きました。

なぜでしょうか?

おそらく、ヨセフが何年も前に兄たちを許していたにもかかわらず、彼らがまだ罪悪感を抱き、ヨセフとの間に壁を感じていたからです。

そして、ヨセフが兄たちを呼ぶと、彼らはこう言いました。

「私たちはあなたの奴隷です。」

しかし、ヨセフは彼らを床から起こしてこう言いました。

「そんなことをしなくてもいいのです。どうしてそのように振る舞うのですか。私は、もうすでにあなたたちを許しました。私は神様ではないし、あなたの裁判官でもありません。私はあなたたちの弟です。

だから、立ってください。恐れないでください。私はお兄さんたちの面倒を見ます。」

私たちが罪悪感を抱いている時、神様はヨセフのように涙を流されるのでしょうか。

私たちが神様を恐れ、神様に近づくことをためらい、神様が私たちを罰すると思っている時、神様は泣かれるのでしょうか。

神様が私たちをすでに赦し、養子として受け入れてくださったのに、私たちがまだ恐れて神様の足元にひれ伏している時、神様は泣かれるのでしょうか。

ヨセフとは異なり、神様は私たちの裁判官であられます。しかし、イエス様の十字架の働きによって、神様は私たちを裁かれません。

むしろ、神様は私たちを起こして立たせてこう言われます。

「どうしてそんなに恐れているのですか。私はもうあなたを赦しました。私のひとり子はあなたの罪のためにすでに代価を払いました。私はあなたを裁かない。あなたは私の子供です。

だから、立って、恐れないでください。私はあなたを世話します。」

あなたの過去のことで、まだ罪悪感を感じているでしょうか。

罪悪感によって神様に近づくことをためらっているでしょうか。

ヨセフが兄たちを許したように、神様はあなたを赦してくださいました。そして、神様はあなたを受け入れてくださいます。

だからこそ、恐れずに神様に近づきましょう。

こういう訳ですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。

イエスはご自身の肉体という垂れ幕を通して、私達のためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

また、私達には神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心を清められ、体を清い水で洗われたのですから、真ったき信仰を持って、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル10:19ー22)