この箇所はシンボリズムが多いです。特に神様が新しいカレンダーについて話された時です。
イスラエル人にとっては、エジプトから救い出された日が新しいカレンダーの初めでした。
たぶん、神様が伝えたかったのは「これからは新しい人生が始まっている。だから、いつも、この日を思い出してください。」ということです。
その1月の14日に、イスラエル人は子羊の犠牲を捧げました。その後で、その羊肉と種を入れないパンと苦菜を食べました。
羊は完璧でなければならなかったし、骨が折れたらだめでした。
イスラエル人は早く去ることができなければならなかったから、種を入れないパンを作りました。
そして、食べながら、彼らは腰の帯を引き締め、足に靴を履き、手に杖を持ちました。
そして、彼らは羊の血を取り、二本の門柱と、鴨居につけました。なぜならば、滅ぼす者はイスラエル人の家を過ぎ越して、その家の初子を打たないからです。
私は言ったように、本当にたくさんのシンボリズムがあります。イスラエル人にとっても、私たちにとってもシンボリズムがあります。
苦菜はエジプトの苦い苦しみのシンボルでした。
そのように、私たちも、ずっと神様から離れて、苦い苦しみを経験しました。他の人の罪によって、私たちは苦しんだし、自分自身の罪によっても苦しみました。だから、私たちは神様に必死に叫びました。
聖書では、パン種が罪のシンボルです。
神様は「パン種を捨てなさい」と命じられました。
そのように、彼らは人生から罪を出さなくてはならなかった。つまり、エジプトの偶像礼拝の習慣を止めなくてはなりませんでした。
種のあるパンはエジプトから速い脱出を妨げるように、罪は神様に従うことを妨げます。だから、イスラエル人は直ちにパン種と罪を捨てなくてはならなかった。
次の日でもなかった。次の週でもなかった。直ちに、それらを捨てなくてはならなかったのです。
そのように、私たちも、罪から離れなくてはなりません。つまり、悔い改めなくてはなりません。
もう一つのシンボルは子羊でした。それはキリストのシンボルです。子羊は完璧でした。
死んだ時に、骨は折られませんでした。そして、その死によって、人々を滅ぼす者から救われました。
そのように、キリストが死なれた時、骨は折られませんでした。 そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の死から救い出されたのです。
果たして、神様は偶然に血を二本の門柱と鴨居につけよと命じられたのでしょうか。それとも、それは十字架に流された血の象徴だったのでしょうか。
これら全部は私たちに新しいスタートを与えるためでした。
だから、急ぎましょう。私たちを滅ぼす罪深い生き方を捨てて、イエス様のもとへ走りましょう。なぜなら、イエス様の死によって、私たちは救い出していただいたからです。
一切の重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐を持って走り続けようではありませんか。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
イエスは、ご自分の目に置かれた喜びのゆえに辱しめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
あなた方は、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方の事を考えなさい。
それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12:1-3)
