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出エジプト記

神様から遠く離れて立つこと

出エジプト記19:9ー25;20:18ー21

どうして、イエス様は死ななければならなかったのでしょうか。

神様との関係を築くために、本当にイエス様が死ななければならなかったのでしょうか。

イスラエルと神様との関係を見れば、その答えがはっきりと分かるのです。

神様はイスラエル人をエジプトから救い出してくださいました。神様は彼らが神様の民と祭司と聖なる国になると言われました。

それでも、神様とイスラエル人の間には距離がありました。

神様はモーセに言われました。

あなたは民のために、周囲に境を設けて言え。

山に登ったり、その境界に触れたりしないように注意しなさい。山に触れる者は、誰でも必ず殺されなければならない。(出エジプト記19:12)

そして、神様が煙と火の中にあって降りられた時に、もう一度モーセに言われました。

下って行って、民を戒めよ。主を見ようと、彼らが押し破って来て、多くの者が滅びるといけない。

主に近づく祭司たちもまた、その身を清めなければならない。主が彼らに怒りを発しないために。(21-22)

また、24節で、神様はこう言われました。

祭司たちと民とは、主のところに登ろうとして押し破ってはならない。主が彼らに怒りを発せられないために。

どうして限界があったのでしょうか。どうして、イスラエル人は神様に近づくことができなかったのでしょうか。

それは、神様は聖なる方だからです。

つまり、神様は完全なお方で、全く罪を犯しません。

そして、聖なる完全なお方である神様は、罪深い人に近づくことができないのです。なぜなら、神様は罪を憎んでおられるからです。

神様に近づくために、モーセと祭司たちはその身を清めなければなりませんでした。

それでも、神様に近づくには限界がありました。神様が柴の燃える炎の中に現れた時に、神様は言われました。

ここに近づいてはいけない。あなたの足の靴を脱げ。

あなたの立っている場所は、聖なる地である。(出エジプト記3:5)

そのあとで、モーセは神様に「あなたの栄光を見せてください」と申し上げました。すると、神様はお答えになったのです。

あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。(出エジプト記33:20)

けれども、イスラエル人たちが神様に近づくことを許されたとしても、多くの人は近づかなかったかもしれません。

イスラエル人はモーセに言いました。

どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。

しかし、神が私達にお話にならないように。私たちが死ぬといけませんから。(出エジプト記20:19)

彼らは自分の罪が分かって、聖なる神様に近づくことを怖がっていました。

だから、モーセが神様に近づいている間、イスラエル人は遠く離れて立っていました。そのため、神様と親しい関係を築くことは非常に難しかったのです。

そういうわけで、神様はその関係を回復するために何かをなさらなければなりませんでした。

神様はこの世界に来て人間となられたのです。なぜなら、人間として神様はもっと近づきやすくなられたからです。そして、神様はご自身の御性格を私たちに示してくださいました。

そのあとで、神様は十字架で私たちの罪のために死なれ、そこで私たちの罰を受けてくださったのです。

だから、今神様は私たちを見たら、私たちの罪を見ません。むしろ、神様の御前で、私たちは聖く、傷のない者です。(エペソ1:4)

イエス様は私たちの罪をもう扱われたから、私たちの神様との関係は、イスラエル人の神様との関係と全然違います。

遠く離れて立つ必要はなく、むしろ私たちは神様に近づくことができるのです。

神様を恐れて震える必要もありません。むしろ、私たちは神様の愛をよく知っているので、大胆に神様に近づくことができるのです。

エペソ2:12ー13でこう書いてあります。

そのころのあなた方は。。。この世にあって望みもなく、神もない人達でした。

しかし、以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。

パウロはこれも書きました。

私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信を持って神に近づくことができるのです。 (エペソ3:12)

だから、イスラエル人と異なって、神様から遠く離れて立たないようにしましょう。むしろ、

私たちは。。。大胆に恵みの御座に近づこう。(ヘブル4:16)

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