十戒の最初の命令において、神様は唯一の神としてご自身を示されました。神様以外に他の神は存在せず、他の「神」を拝んではなりません。
第二の命令において、神様はさらにご自身についてもう一つのことを示されました。すなわち、神様は形作られることのない神なのです。
イスラエル人に神様はこう命じられました。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。
上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(出エジプト記20:4ー5)
この命令によって、神様は二つのことを示されました。第一に、私たちは創造物を拝むのではなく、創造者を拝まなくてはならないのです
イザヤ44章で、神様は創造物を拝む人々をあざけられました。特に、自分の手で造ったものを拝む人々をあざけられました。
彼らは木を切り、その半分で火を燃やして家を暖め、料理を作ります。けれども残りの木で偶像を造り、それを拝むのです。
ただの木にすぎないのに、彼らは「あなたは私の神です。私を救い出してください。」と言うのです。
19節で、神様はこう言われました。
彼らは考えてみず、知識も英知もないので、「私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべきものを造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。」とさえ言わない。(イザヤ書44:19)
ローマ書1章で、パウロはこのような人々について記しました。
彼らは真の神様を拝むことをやめ、人間や鳥や獣や這うものの形に似た偶像を造り、それを拝み始めたのです。
このような人々について、パウロは次のように書いています。
「それは、彼らが神の真理、偽りと取り代え、造り主の代わりに造られたものを拝み、これに仕えたからで す。」(ローマ1:25)
神様ははっきりと語られます。「創造物を拝んではならない。創造者だけが、あなたがたの礼拝に値する方なのです。」
昔、人々は太陽や月、そして偶像を拝みました。今でも、そのようなものを拝む人がいます。
けれども、今日では多くの人が、お金や車や持ち物を拝んでいるのです。
では、あなたにとって一番大切なものは何でしょうか。朝に目を覚ますとき、あなたは何を思い浮かべますか。夜に眠りにつくとき、あなたは何を考えますか。
多くの場合、それこそがあなたの神なのです。あなたの心を支配するものが、あなたの神なのです。
第二のことは、神様が形作られることのない神であるということなのです。
もちろん、私たちは偶像を造って拝んではなりません。しかし、それにはさらに深い意味があります。
私たちの心の中に、自分勝手な神様のイメージを築き、それを拝んではならないのです。むしろ、神様がご自身を示されたとおりに、私たちは拝まなくてはならないのです。
それはどういう意味でしょうか。
例えば、多くの人は神様を愛の神だと思いたいのです。
「神様は私を愛しておられる。私を受け入れてくださる。神様はすべての人を愛しておられる」と考えるのです。
それは確かにそうです。
けれども、誰が神様を正義の神だと思いたいでしょうか。誰が神様が聖なる方であるがゆえに、悪を罰しなければならないと思いたいでしょうか。
イエス様に救いのために信頼しない人は、地獄に行かざるを得ません。誰がそのことを好ましいと思うでしょうか。
正直なところ、私は全く好ましいとは思いません。皆が天国に行くと願いたいのです。
しかし、私の希望の通りに神様を造ることはできません。神様は聖なる方であり、罪を憎まれるのです。だから、ある人は地獄に行かざるを得ないのです。
たとえ神様が愛の神であっても、神様は聖なる神であり、罪を罰しなければならないのです。
他の人々は、別の方法で神様を形づくろうとします。彼らにとって、神様はしもべのような存在なのです。
彼らは「もし、私の信仰が十分であれば、神様は私の願いを叶えなければならない」と考えます。金銭やベンツや大きな家など、何を頼んでも神様が叶えなければならないと思うのです。
あるいは、病気であれば、信仰が十分であれば、神様が癒さなければならないと考えます。
しかし、私たちは神様を威圧することはできません。神様は主権を持っておられます。私たちは持っていないのです。
それでも、多くの人々はそのことを認めようとしません。むしろ、彼らは神様を操ろうとします。神様のみ心に従うのではなく、むしろ神様に自分の心に従わせようとするのです。
けれども、神様を操ろうとするなら、それは神様を拝んでいるのではありません。むしろ、あなた自身が神になってしまっているのです。
神様はそのような態度を決して受け入れられません。
あなたは神様について考えるとき、どのような態度をとっていますか。
自分が作り上げたイメージを用いているのですか。神様を形づくろうとしているのですか。
それとも、神様がご自身を示されたとおりに拝んでいるのでしょうか。
それこそが真の礼拝なのです。
そして、神様は本当の礼拝だけを受け入れられるのです
