日本では、多くの人が「Oh my God」という表現をよく知っています。
高校生でさえ、その表現を知っているのです。
けれども、それを耳にすると、少し不自然に感じることがあります。多くの場合、その使い方が少し間違っていて、イントネーションも異なるのです。
それでも、英会話の生徒たちは何度もその表現を使うのです。
しかし、私が最も心を痛めるのは、彼らが神様をないがしろにする文化的な習慣を真似してしまうことです。
神様に祈っているのではないのです。尊敬の態度で神様について語っているのでもないのです。
ただ、何を言っているか考えずに神様の御名を使っているだけなのです。
これは日本人だけでなく、英語を話すネイティブの人々もよく行っているのです。
神様は私よりもはるかに憐れみ深い方です。
しかし、もし私が神様だったなら、そんな人が私に「助けてください」と言ったとき、私はその人を少し無視してしまうかもしれません。そして、その人に向かってこう言うでしょう。
「あ、今あなたは本当に私に呼びかけているのですか。私は知りませんでした。」
神様は「主の御名を、みだりに唱えてはならない」と語られました。
つまり、「私を敬いなさい。私は敬われるべき神なのです」という意味なのです。
けれども、どれほど多くの人が神様とイエス様の御名を敬わず、呪いの言葉として用いているのでしょうか。
あるいは、驚きやショックを表すために神様の御名を使っているのでしょうか。
私たちの創造主の御名をそのように使ってはならないのです。
私たちの贖い主の御名をそのように使ってはならないのです。
とはいえ、主の御名をみだりに唱える方法は数多くあるのです。
以前も述べたように、「もし信仰が十分にあるなら、神様は何でも与えなくてはならない」と語る人が多くいます。
ところが、祈っても癒されない人に出会うと、彼らはよくこう言うのです。「あなたの信仰は足りないのです。もし十分にあれば、癒されるでしょう」と。
その言葉は、その人を深く傷つけてしまうのです。
ヨブの友人たちも同じようなことを語りました。
ヨブがひどい試練に遭い、苦しんでいたとき、彼らはこう言ったのです。「あなたは罪を犯していたのでしょう?だから、神様があなたを罰しておられるのです。」
もし私たちが神様の御名を用いて、根拠もなく人を裁くなら、神様は罰せずにはおかれないのです。
私たちが神様の御名をないがしろにする方法は、もう一つあります。
それは、人を操作しようとすることです。
昔、ある伝道者がこう言いました。「3月までに八百万ドルを調達しなければ、神様は私を天国に連れて行かれるのです。」
その言葉を聞いたクリスチャンではない人々は、神様の御名をまったく敬わなくなってしまったのです。
時々、夫は妻にこう言います。「あなたは私に従わなくてはならない。神様がそう語られたでしょう?」
確かにそうかもしれませんが、神様の御名を用いて人に命令してはならないのです。
神様の御名の誤った使い方がもう一つあります。それは、自分の意志を通すために神様の御名を利用することです。
最近、ある女性と話したとき、その人はキリスト教に関係する戦争について尋ねました。私の答えはこうです。良い意図を持っていたクリスチャンもいたでしょう。それでも彼らは間違っていたのです。
そして、他のクリスチャンたちは神様の御名を用いながらも、結局は自分の意志を押し通しただけなのです。
昔、私はある話を聞きました。
有名なクリスチャンがミニストリーを始めるとき、他の牧師を真似しようとしましたが、全くうまくいかなかったのです。
そこで彼は祈りました。「神様、あなたは間違ったことをしておられるのでしょうか。なぜ、うまくいかないのですか。」
しかし、神様はこう答えられました。「私は間違ってはいない。あなたが間違っているのだ。」
それを聞いて、彼はこう言いました。 「だって、私はあなたの御心に従っていると思っていたのです。」
神様はこう答えられました。「いいえ。あなたは私の御心に従ってはいない。あなたはただ私の御名を使っているだけなのだ。」
では、彼は神様の御名をみだりに唱えたのでしょうか。おそらくそうではありませんでした。彼は本当に神様に従いたかったのです。ただ、間違っていただけなのです。
けれども、多くの人は自分の意志を通すために神様の御名を用いるので、神様の御名を不名誉なものにしてしまうのです。
あなたはどうでしょうか。神様の御名を敬っていますか。あなたにとって、神様は敬われるべき存在なのですか。
