「殺してはならない。」つまり、殺人を犯してはならない。
十戒の中で、これは最も有名な命令だと思います。
日本ではどうか分かりませんが、アメリカではクリスチャンでない人でも、この命令をよく知っています。
もしアメリカで「十戒の命令の中で何を覚えているか」と尋ねたら、ほとんどの人がこの命令を覚えているはずです。
なぜでしょうか。おそらく、私たちは殺人が人間に対して最も悪い罪だと考えるからです。
おそらく神様もそう思われます。大洪水のあと、神様はノアに言われました。
私はあなた方の命のためには、あなた方の血の値を要求する。。。
人にも、兄弟である者にも、人の井落を要求する。
人の血を流す者は、人によって、血を流される。
神は人を神のかたちにお造りになったから。(創世記9:5ー6)
殺人の罰として、神様は初めて死刑について言及されました。
なぜでしょうか。人を殺すことは、神様のかたちを殺すことになるからです。
他の動物は神様のかたちに造られていません。人間だけです。だから、神様にとって私たちは尊い存在なのです。
では、私たちはどうでしょうか。殺人の悪さは、人を殺すことをいとわずに命の価値を下げることにあります。
けれども、私たちはどれほど人の価値を下げているでしょうか。
最近、私は生徒が先生の腕をカッターナイフで刺したと聞きました。その生徒は先生の命を大切にしませんでした。
しかし、その家庭では互いを大切にし合っていませんでした。つまり、その両親は離婚していたのです。その生徒はその態度を両親から学んだのでしょうか。
オサマ・ビン・ラディンが殺されたとき、私の生徒はこう尋ねました。
「なぜアメリカ人は誰かの死によって、そんなに喜ぶのでしょうか。アメリカ人の多くはクリスチャンではないのですか?」
つまり、「これはクリスチャンの考え方なのでしょうか。」
しかし神様は言われました。
私は決して悪者の死を喜ばない。(エゼキエル書33:11)
神様は聖なる方ですから、罪を罰しなくてはなりません。とはいえ、神様は墓の上で踊っているわけではありません。
むしろ、その人のために泣いておられるのです。なぜなら、彼らは神様のかたちに造られたのに、そのかたちが歪んでしまったからです。
オサマ・ビン・ラディンがもはや人を殺さないことに私は嬉しく思います。それでも、私は彼の墓の上で踊ってはいません。なぜなら、神様はそうされないからです。
神様は人間の命を本当に大切にされるのです。
では、私たちの日常生活ではどうでしょうか。私たちは人をどれほど大切にしているでしょうか。
特に、あなたを傷つけた人に対してどのような態度を取っているでしょうか。
イエス様は言われました。
昔の人々に対して、『殺すな。人を殺す者は裁きを受ける』と言われているのを、あなた方は聞いています。
しかし、私はあなた方に言います。兄弟に怒る者は誰でも裁きを受けるのです。(マタイ5:21ー22)
なぜでしょうか。心の中で怒りや苦い感情を抱えながら、その人の中に神様のかたちを見ることはできないからです。結局、その人の価値を下げることになります。
多くの場合、私たちはその人にラベルを貼ります。
「彼は馬鹿だ」
「わがままだ」
「ひどい人だ」…
そして最悪の場合、「彼には価値がない」と思ってしまいます。
その思いを持ち続けるなら、心の中でその人を殺したことになるのです。
ナイフで殺してはいないかもしれませんが、怒りと許さない心によって人間関係を終わらせてしまうのです。
もちろん、危険な状態だから関係をやめることは悪いことではありません。
しかし、怒りと憎しみによって関係を断つことは、殺人に似ています。
神様のように、人を大切にしているでしょうか。それがこの命令の核心です。
もし神様のように人を大切にするなら、その人を殺しません。ナイフで殺さないし、心の中でも殺しません。
むしろ、その人を神様のかたちに造られた者として見て、大切にするのです。
イエス様はその人を大切にし、十字架で死なれました。あなたはその人を大切にするでしょうか。
