それでは、これからは少しイスラエル人の社会律法を見てみましょう。
実は、この箇所を読むのがあまり楽しみではありませんでした。この律法の文化的な背景を具体的に説明したくないからです。
だから、私はこうします。この箇所を読んで、もし何か面白いことがあれば、そのことについて話します。
このブログがバイブルスタディというよりもディボーションのようなものなので、いつも通りに、私は聖書から実用的なことを見つけたいと思います。
この箇所が少し興味深いと思うのは、私たちのキリストとの関係に結びついているからです。
当時、イスラエル人は他の人に奴隷として自分自身を売ることがありました。なぜなら、払えない負債があったり、犯罪を犯してその償いとして金銭を支払わなければならないのに、お金がなかったからです。
通常は、六年間ほど奴隷として働きました。
けれども、その主人が奴隷に他の奴隷を妻として与えた場合、その奴隷が自由になる時には、妻と子どもを連れていけませんでした。その奴隷が自由になっても、妻と子どもは自由になりませんでした。
実はその律法は少し曖昧です。
おそらく、最終的には妻と子どもも自由になるはずです。なぜなら、多くの場合、その女性が奴隷になる目的は、その主人かその主人の息子と結婚するためだからです。しかし、他の奴隷と結婚した場合、それはもうできません。
7ー11節によると、もし主人が奴隷と結婚しない場合、またはその息子と結婚しない場合、奴隷を自由にしなければなりませんでした。けれども、いつ解放しなければならないかは少し微妙です。
おそらく六年間ほどだと思いますが、私も正確には分かりません。モーセに聞いてみたいものです。
とにかく、奴隷が自由になりたくても、妻と子どもを残したくない場合、その奴隷はいつまでも主人の奴隷でいることを選ぶことができました。
彼は主人の戸口の柱のところに行き、耳を錐で刺し通しました。その時、その奴隷はこう言いました。
私は、私の主人と、私の妻と、私の子供を愛しています。自由の身となって去りたくありません。(出エジプト記21:5)
つまり、妻と子供に対する愛だけでなく、主人に対する愛によっても、ずっと仕えることを選びました。
同様に、詩篇40篇で、メシア、つまりイエス様はこう言われました。
あなたは、いけにえや穀物の捧げ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いて下さいました。
あなたは、全焼のいけにえも、罪のいけにえも、 お求めになりませんでした。
その時私は申しました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神。私は御心を行うことを喜 びとします。あなたの教えは私の心の中にあります。」
「私の耳を開いて下さいました」というのは、多分、この奴隷の耳を刺し通す習慣について話しています。
つまり、イエス様が言われたのは、「父よ、あなたを愛するから、私はあなたに従って仕えます」ということです。
けれども、私たちの場合ちょっと考えてみましょう。
そのイスラエル人の奴隷のように、私たちは大変な状態にあったので、神様の御前に行きました。
私たちの罪の負債は重荷で、人生はめちゃくちゃで、霊的に貧しかったのです。
しかし、私たちが神様のところに行ったとき、神様が良い主人であることが分かりました。そして、神様が私たちを本当に愛しておられることを理解するようになりました。
そして今、キリストの血によって、私たちの罪の負債は支払われ、人生は回復されました。それでも、私たちは神様から離れたくありません。
むしろ、私たちは神様を愛し、神様がしてくださったことを覚えているので、神様に仕え続けます。
あなたはどうでしょうか。神様に仕えていますか。それとも自分自身に仕えていますか。
もし、あなたが神様に仕えているのなら、なぜ仕えているのですか。
義務感から仕えているのですか。
それとも、神様を愛して仕えたいと願っているのですか。
