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出エジプト記

罪の問題を扱うこと

私の妻と結婚した直後、そのおじいさんが亡くなり、私たちは通夜と葬式に行きました。おじいさんは仏教徒だったので、仏教の式でした。

通夜の時に、お坊さんは少し興味深いことを語りました。つまり、阿弥陀の愛と恵みによって、人々は天国に行くことができるということです。

キリスト教のメッセージと似ていたので、私の妻は少し驚きました。

私が大学生の時に、私もそう思いました。

その時、私は宗教の授業に出席しました。授業で、教授は阿弥陀の礼拝について語りました。それは、阿弥陀の恵みと愛によって人々が救われるという教えでした。

それを聞いて、私も驚きました。初めて、キリスト教以外にそのようなメッセージを聞いたからです。だから、私は考えました。

「キリスト教とその仏教はどう違うのでしょうか。」

答えはすぐに出ました。阿弥陀の宗教は罪の問題を全然扱っていません。

罪は赦されますが、正義が全くありません。阿弥陀は罪を罰しません。

キリスト教は違います。赦しがありますが、代価があります。正義のために、代価を払わなければなりません。

だから、旧約聖書の時代に、神様は罪のために犠牲を要求されました。

もし、誰かが幕屋の庭に入るなら、一番最初に見るのが犠牲のための祭壇です。

庭に入るには戸口が一つしかなく、祭壇も一つしかありません。なぜならば、神様は皆に何かを伝えたかったからです。それは、神様の前に行く道が一つしかなく、罪を扱うために一つの方法しかないということです。

牡牛か山羊が祭壇に連れて行かれ、殺されて、祭壇の上で焼かれました。

その犠牲を通して、神様が私たちに思い出させたかったのは、二つのことです。

一つ目は、私たちは皆、罪を犯します。そして、罪は深刻な問題なので、その結果はいつも死です。

二つ目は、全世界の罪のためにもっと完全な犠牲を捧げる日を指し示していました。

どうして、イエス様の犠牲はもっと完全だったのでしょうか。

一つ目は、牡牛は死を選択しませんでした。むしろ、祭壇に連れて行かれて死んだのです。

二つ目は、牡牛は正しい行動と悪い行動の違いをよく理解していませんでした。

牡牛は無罪でしたが、罪を犯すかどうかを選択することができませんでした。つまり、選択によって無罪ではなく、無知によって無罪だったのです。

三つ目は、牡牛がどんなに完全であっても、牡牛の命は人間の命とは等しくありません。

しかし、イエス様がこの世界に来られたとき、人間として来られました。人間としては私たちと等しく、神様としては私たちより偉大な方でした。

だから、イエス様はご自身の偉大な命を、私たちの命の代わりに捧げてくださいました。

それに、イエス様は義と罪の意味をよく理解しておられましたが、義の道をいつも選ばれました。イエス様の罪の無さはご自身の選択によるものでした。

最後に、イエス様の犠牲はご自身の選択でした。イエス様は死なないことを選ぶことができましたが、私たちに対する愛のために死んでくださいました。

こういうわけで、イエス様の犠牲はもっと完全でした。そして、イエス様が死んだとき、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。

ヘブル10:14には、こう書いてあります。

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

幕屋の庭にある祭壇は罪の問題を思い出させます。

阿弥陀の宗教はその問題を扱いません。他の宗教は罪を扱うためにいろいろな良い行動を要求します。

しかし、神様の庭に入るには一つの戸口しかなかったように、一つの祭壇しかなかったように、罪の問題を扱うには一つの方法しかありません。それはイエス・キリストです。

イエス様だけを通して、罪を扱うことができます。

あなたの罪はどうですか。もう赦されましたか。ローマ書6:23には、こう書いてあります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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出エジプト記

一つの道しかない

それでは、幕屋について話しましょう。私にとって一番興味深いのは聖所と至聖所の話です。

聖所の中には供えのパンと燭台と金の香壇がありました。

至聖所の中には契約の箱がありました。

至聖所は神様の住んでおられるところとみなされました。けれども、神様がおられる至聖所に入るには供えのパンと燭台を通り過ぎなくてはなりませんでした。

私たちがもう学んだように、その二つの物はイエス様の象徴でした。

そのように、イエス様は言われました。

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 (ヨハネ14:6)

父なる神様との関係を求めるなら、命のパン、また世の光であるイエス様を通して行かなくてはなりません。他の道はありません。

多くの人々はその教えが嫌いです。

どうして、イエス様を通して行かなくてはならないのでしょうか。

なぜ、他の道では神様のもとへ行くことができないのでしょうか。

なぜ、仏陀を通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、モハンマドを通して行くことはできないのでしょうか。

なぜ、ヒンドゥー教や他の宗教ではだめなのでしょうか。

なぜならば、神様は聖なる方ですが、私たちはそうではないからです。

そして、私たちが学んだように私たちのような人々が神様との関係を築くためには、私たちの罪のために贖いが必要です。

それを成し遂げられたのは、ただイエス様おひとりなのです。

イエス様は完全な生涯を送られました。まったく罪を犯されることはありませんでした。

仏陀は完全な人生を生きなかったのです。

モハンマドも完全な人生を生きなかったのです。

イエス様だけが「私は完全だ」と言うことができるのです。

そして、完全で罪のない方だけが、有罪の者の代わりに罰を受けることができるのです。

聖所と至聖所の間には垂れ幕があって、大祭司だけが入ることができました。一年に一回だけ入ることができました。

入る時には、イスラエル人の罪を贖うために、血の供え物を持っていかなければなりませんでした。

しかし、イエス様が死なれた時に、

手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル書9:11-12)

だから、イエス様が死なれた後で、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。(マタイ27:51)

私たちと神様の間に立っていた壁は永遠に降ろされました。だから、私たちは神様との関係を持つことができるようになりました。

仏陀は、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

モハンマドも、他の宗教の指導者たちも、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。

イエス様だけがそれを成し遂げてくださいました。だから、イエス様だけを通して、私たちは神様の前に行くことができるのです。

神様を知りたいと願っていますか。もしそうなら、イエス様を通して神様のもとへ行かなければなりません。

イエス様は命のパンです。

イエス様は世の光です。

しかし、何よりも大切なのは、イエス様こそ父なる神様の御前に出ることができる唯一の道です。

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出エジプト記

命のパン、世の光

私は認めます。この箇所はめちゃくちゃつまらないと思います。私たちは本当にそんな細かいことを知らなくてはならないでしょうか。

はい、分かりました。イスラエル人はそれを作らなくてはならなかったから、知る必要がありました。とはいえ、今は21世紀なのです。

いずれにせよ、この箇所の象徴は自分自身についてイエス様の言葉を思い出させます。つまり、イエス様は命のパンであり、世の光です。(ヨハネ6:35;8:12)。

供えのパンは絶えず幕屋の特別な机の上に置かなくてはなりませんでした。

英語の翻訳で、「Bread of the Presence」、つまり、神様の臨在のパンというものでした。

そのパンによって、イスラエル人は神様がいつも共におられ、導かれ、必要を備えられたことを思い出しました。

それだけでなく、イスラエル人が砂漠で生き残るために神様が天からのパンを備えられたことを思い出させました。

さらに、神様はイエス様を指しておられました。つまり、イエス様は、天から下って来て、世に命を与えるパンです。(ヨハネ6:33)

パンが私たちの体に命を与えるように、イエス様は私たちの霊に命を与えます。

もし誰かがイエス様を信じるなら、その人は永遠の命を受けるのです。

二つ目のシンボルは純金の燭台でした。

その燭台は夜から朝まで絶えず灯しておかなければなりませんでした。それを見て、神様がイスラエル人の光であることを思い出しました。

神様は火の柱として、エジプトからイスラエル人を導かれました。夜の時に、神様は彼らの光でした。

けれども、それだけでなく、神様は彼らの霊的な光でした。神様はイスラエル人に聖くて正義の道を示されました。

そのように、イエス様は世の光です。

イエス様は、この暗く罪に満ちた世に、真理と命の光を照らされました。

しかし、その闇は光に打ち勝つことができなかったのです。(ヨハネ1:5)

イエス様は言われました。

わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。(ヨハネ8:12)

たくさんの人はつまずきながら、人生の意味を探しています。

イエス様だけにあって、私たちは人生の意味と目的を見つけることができます。イエス様が私たちの人生に光を照らすと、私たちがどこに行くべきか、何のために作られたかが分かるようになります。

もし、人生の意味を探しているなら、私たちの創造者に尋ねるべきでしょう。

この世の命以上のものを探していますか。命のパンを求めてください。イエス様の前に行けば、あなたはもう飢えることがありません。

暗闇の中でつまずきながら、あなたは人生の意味を探しているのですか。

世の光であるイエス様を仰いでください。

イエス様にあってこそ命の光があり、そこであなたの人生の意味と目的を見いだすことができるのです。

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出エジプト記

神様との関係の出発点

神様が幕屋の作り方について語られるとき、興味深いのは、天幕の外側からではなく、幕屋の中にあるものから語り始められるということです。

神様が最初に語られたのは、最も大切な契約の箱でした。

その箱について、私は印象に残っていることが二つあります。

一つはその箱に入っているものです。それは、十戒です。十戒を通して、人々は神様がどのようなお方であるかを知ることができました。さらに、神様の聖さを知ることができました。

今でも、神様の御前に出るならば、そのことを悟るはずです。すなわち、神様は聖なるお方なのです。

そして、もし私たちが神様との関係を求めるなら、私たち自身も聖くならなければなりません。

けれども、箱の上に「あがないの蓋」というものがありました。

その蓋には他の名前もありました。それは「あわれみの席」です。

どの名前を使っても、神様との関係についてもう一つのことを学びます。

神様は聖い方で、私たちに「聖なるものとなりなさい」と言われますが、私たちは聖くありません。

ローマ書3:23にはこう書いてあります。

すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。

だから、私たちが神様に近づきたいなら、神様のあわれみが必要です。

あわれみとは何でしょうか。別の言い方をすれば、「私たちは自分の罪のゆえに罰に値する者ですが、神様はその罰をお与えにならない」ということです。

しかし、神様が私たちにあわれみをお与えになるためには、あがないが必要でした。

「あがない」とは「覆う」という意味です。すなわち、私たちの罪が覆われたのです。

旧約聖書の時代には、雄牛の血が人の罪を覆いました。

大祭司が契約の箱がある至聖所に入る時、その血を持っていかなければなりませんでした。

けれども、イエス様がこの世に来て、十字架でご自身の血を流されたので、今はイエス様の血が私たちの罪を覆ってくださいます。だから、イエス様の血によって、私たちは神様に近づくことができます。

ヘブル9:22にはこう書いてあります。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

どうしてでしょか。血は命の象徴なのです。(レビ記17:11)

イエス様の血の意味とは、イエス様がご自身の罪のない生涯を捧げ、私たちの罪ある生涯の代わりに、罪のゆえに罰をお受けくださったということなのです。

だから、契約の箱を通して、私たちは神様との関係について、2つの事を学ぶことができます。

一つは神様は聖なる方だから、神様との関係を求めるなら、私たちも聖なる人たちにならなければならないのです。

2つ目は私たちは聖くないから、罪のためにあがないが必要だったのです。だから、イエス様は十字架で私達の罰を受けて下さいました。

けれども、イエス様は無罪でしたから、神様がイエス様を復活させて、イエス様を通して、私達に永遠の命を提供してくださいます。

しかし、私たちがその二つのことを理解していなければ、神様との関係を持つことはできません。

その二つの真理を抱くことこそ、神様との関係の出発点なのです。

あなたは神様との関係を持っているのですか。

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出エジプト記

聖所と幕屋

多くの人にとって、この箇所は少しつまらないと思うかもしれません。

しかし、覚えておかなければならないのは、聖所と幕屋、その中に入っているものが天国にあるものの象徴であるということです。

だから、神様は言われました。

私があなたに示すのと全く同じように作らなければならない。(出エジプト記25:9)

また、

よく注意して、あなたが山で示される型通りに作れ。(40節)

地上の幕屋を作るときに、モーセは具体的なパターンに従わなくてはなりませんでした。

ヘブル人への手紙の著者が言ったのは、地上の幕屋はさらに完全な幕屋のコピーだったということです。(ヘブル9:11)

けれども、それだけではなく、聖所と幕屋はクリスチャンの人生のシンボルです。

その二つの言葉を見てみましょう。

「聖所」というのは聖別した所という意味です。

幕屋という言葉は「住む」という語から来ています。ですから、「住む所」という意味なのです。

神様にとっては、私たちは聖所であり、神様の幕屋です。

クリスチャンとして、私たちは神様の住むところです。

エペソ人への手紙で、こう書いてあります。

こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。(エペソ3:17)

また、第一コリント6:19で、こう書いてあります。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

ヨハネ14:23で、イエス様はこう言われました。

だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。

そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

父なる神とイエス様と聖霊様は私たちの中に住むように来られます。私たちは神様の生きておられる幕屋です。

神様に会うために、私たちは特別なところに行く必要がありません。私たちがどこに行っても、神様は私たちの中に住んでおられるからです。

しかし、私たちはただの幕屋ではありません。私たちは神様のために聖別された所、つまり神様の聖所です。

「聖別」という言葉は、英語からはやや翻訳しにくいものです。英語では “Set apart” と表現しますが、日本語では少し教会的な響きを持っています。

けれども、「Set apart」というのは「専用」という意味です。

時々、電車に乗る時に「女性専用車」があります。たくさんの車両がありますが、私は男性なので、その女性専用車には入りません。

また、仕事の後で、私の家は私の「聖所」です。

つまり、私の家は私と家族のためです。他の人は私の家を使用できません。

私の近所の中で、たくさんの家がありますが、私の家は城間の家族専用です。

そこで、私の家族はリラックスできるし、互いに話し合うことができます。そして、時々、私たちは友だちを招いて、私たちの家が他の人に触れる道具になります。

そのように、私たちの人生は神様の聖所です。私たちの心の中で、神様はリラックスできるし、私たちと話し合うことができます。

そして、神様は私たちの人生を用いて、他の人に触れることができます。

神様はそのことをイスラエル人に伝えたいと望んでおられました。そして、同じことを私たちにも伝えたいと望んでおられるのです。

あなたはどうですか。あなたがクリスチャンなら、神様の住んでおられる所です。

けれども、あなたは神様の聖所でしょうか。あなたの人生は神様専用でしょうか。神様と時間を過ごしますか。あなたの人生は他の人に触れる道具でしょうか。

神様、私をあなたの幕屋としてくださり、心から感謝いたします。

どうか私があなたの聖所となるようにしてください。

あなたが私の心をご覧になり、「ここは良い場所だ。歓迎され、安らぎを得ることができる。この人を通して他の人に触れることができる」と言ってくださいますように。

私はそのような聖所になりたいのです。アーメン。

聖所として私を整えてください。
清く、聖く
試練を受けても、忠実でいられるように。
感謝を持って、
私があなたのために聖所となりますように。

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出エジプト記

初めの契約、新しい契約

そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。

「見よ。これは、これらすべての言葉に関して、主があなた方と結ばれる契約の血である。(出エジプト24:8)

これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)

その言葉が私は印象に残っています。

旧約聖書と新約聖書の中で、私たちは初めて「契約の血」という言葉を目にします。

両方の契約は血によって結ばれました。

どちらも神様と神様の民との契約関係の始まりでした。

それでも、この二つの契約には大きな違いがあります。

一つ目の違いは、初めの契約では、神様との関係が全く親しくなかったことです。神様はモーセにこう言われました。

あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝む。

モーセ一人主のもとに近づけ。

他の者は近づいてはならない。民もモーセと一緒に上ってはならない。(出エジプト24:1ー2)

一方で、新しい契約においては、誰もが神様に近づくことを許されているのです。さらに、私たちは「神様に近づきましょう」と招かれているのです。(ヘブル10:19ー22)

二つ目は、初めの契約はその民の行動によるものでした。

モーセはその契約を読んだあとで、みなは答えました。

「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」(7節)

ところが、結局イスラエル人は不従順でした。イスラエルの歴史は彼らの不従順の記録です。だから、何回も彼らはその契約を破りました。

しかし、新しい契約は、十字架におけるイエス様の死によって与えられた恵みに基づいているのです。

パウロはこう記しました

あなたがたは、恵みゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。(エペソ2:8ー9)

初めの契約は雄牛の血でした。けれども、その血は罪を除くことができませんでした。(ヘブル10:4)

新しい契約の血はイエス様の血でした。その血は私たちを罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)

初めの契約では、律法が石の板に書いてありました。律法に従うのは私たちの努力だけによるものでした。

新しい契約では律法は私たちの心に書いてあります。(ヘブル8:10)

そして、神様が私たちの心の中で働いて変えるので、私たちは従うことができるようになります。

最後の比較の言葉はヘブル人への手紙の著者に任せます。

あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。

このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。

彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。

また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。

しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。

また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、

さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。。。

こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。

こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。

私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル書12:18ー24;28ー29)

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罪と戦う

この箇所を読むときに、私は私たちの罪との戦いについて考えます。

神様が言われたのは、イスラエル人がカナンに入ると、神様がその敵を追い出し、全く滅ぼすということです。

そのように、神様は私たちの人生の中で罪を追い出すために働いておられます。だから、神様は私たちの人生の中で、罪がちょっとでも残ることを望んでおられません。

罪はガンのようなものです。もし全部を取り除いてしまわないと、すぐに広がります。だから、神様はイスラエル人に命じられました。

(その偶像を)徹底的に打ち壊し、その(神々の)石の柱を粉々打ち砕かなければならない。(出エジプト記23:23)

そのように、神様の力で罪は私たちの人生から追い出されるけど、私たちがしなければならないことがあります。

神様は「私はカナン人を消し去る」と言われたけど、31節で「あなたが彼らをあなたの前から追い払う」と言われました。

つまり、私たちは積極的に罪と戦わなくてはなりません。

例えば、私たちは罪を引き起こす原因になるものを捨てるべきです。ポルノや悪い友達など、もし何かがあなたに罪を犯させるなら、それを捨てたほうが良いです。

それだけではなくて、神様はイスラエル人に命じられました。

あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。彼らは、あなたの国に住んではならない。

彼らがあなたに、私に対する罪を犯させることのないためである。

それがあなたにとって罠となるので、あなたが彼らの神々に使えるかもしれないからである。(32ー33節)

そのように、罪が私たちの心に住むことを許さないべきです。また、罪と契約を結ばないべきです。

「罪と契約を結ぶ」というのは何でしょうか。一言で言うと、妥協です。

「この映画はちょっと道徳的に怪しいですけど、見る。」

それとも、「怒りを持ち続けるのは良くないと分かっているけれど、彼が謝るまでは、私は怒りを手放さない。」

それとも、「わがままは良くないと分かっているけれど、私は欲しいのです。私はそれに値しているからです。」

私たちはどれほどそのような妥協をしてしまうのでしょうか。

神様は「そうするな」と言われます。

「あなたの心に住むことを許してはならない。それはあなたにとって罠となるのです。」

最後のポイントです。一つの戦いだけでは、罪を征服できません。

神様はこう言われました。

あなた方が増え広がって、この地を相続地とするようになるまで、私は徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。(30節)

そのように、罪に対する勝利は時間がかかります。

徐々に神様は勝利を与えてくださいます。

時々、その戦いは大変に難しいです。

時には、私たちは倒れます。

しかし、私たちは必ず勝利を得るのです。だからこそ、諦めないでください。

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出エジプト記

完全に愛する

多くの人は「敵を愛しなさい」という教えがイエス様から来たと思いますが、その教えの根はこの箇所から来ています。

あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。

あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならない。(出エジプト記23:4ー5節)

私たちの敵が大変な状態になったら、私たちはよく喜びます。私たちは「彼はその悪いことに値している。それは良かったです」と言います。

しかし、神様は喜んではならないと言うだけでなく、「わざわざその人を手伝いなさい」と言います。

それはかなり難しいことです。

私を憎んでいる人をわざわざ手伝うことは私の気持ちに反します。

時々、好きな人を手伝ってあげることさえ大変です。けれども、好きではない人を手伝ってあげることはさらに大変です。

しかし、イエス様が命じられたのは、私たちの愛を完全なものにするということです。

つまり、あなたを愛している人だけを愛するのではなく、あなたを愛していない人も愛するべきです。

あなたに親切にする人だけに親切にするのではなく、あなたに親切にしない人にも親切にするべきです。

神様はもう一つのことを命じられました。それは、貧しい人と在留異国人を差別しないことです。

私が大阪に住んでいた時に、ある木曜日か金曜日にホームレスの人が教会に来ました。そして、彼は教会について聞き始めました。

私の日本語があまりよくなかったけど、牧師の妻がたまたま出てきたので、私は来てくださいのジェスチャーをしました。

彼女はちょっと変な顔をして、ホームレスの人と全然話したくなさそうでした。けれども、そのホームレスの人はもう彼女を見てしまったので、その牧師の妻は彼と話をしなければなりませんでした。

私はその牧師の妻の反応を見て、がっかりしました。

しかし、私も人に対する反応が完全だと言えません。特に、私と違う人に対する反応は完全ではありません。

日本では、私は外国人です。私こそが異なる存在です。だからこそ、私の方が努力して周囲の人々と関係を築くべきなのです。

それなのに、私と異なる人に出会うと、私は少し避けてしまいます。

私のような人と時間を過ごしたいのです。多分、皆もそうでしょう。

けれども、例えば、もし教会で一人で座っている人を見たら、私はもっと完全な愛が必要です。つまり、その人に触れるべきです。

イエス様はこの世に来た時に、彼の愛は完全でした。彼と違う人でも、敵でも、友達でも、構いませんでした。イエス様は皆を愛しておられました。

だからこそ、イエス様はこう言われました。

あなた方は互いに愛し合いなさい。

私があなた方を愛したように、そのように、あなた方も互いに愛し合いなさい。

もしあなた方の互いの間に愛があるなら、それによって、あなた方が私の弟子であることを、すべての人が認めるのです。(ヨハネ13:34~35)

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出エジプト記

群衆にならう

私は幼い頃の思い出があります。ある日、クラスメートたちが私をからかっていました。理由は覚えていませんが、友だちの反応はよく覚えています。彼は私の隣に来て、こう囁きました。

「私もあなたをからかうけど、気にしないでね。本気じゃないから。」

私は頷き、その友だちが私をからかい始めました。

私たちの関係が壊れたわけではありませんが、振り返ってみると、かなりひどいことでした。彼は全然私を守ってくれませんでした。むしろ、彼は皆に合わせて、私をからかいました。

とはいえ、私も同じようなことをしたことがあります。皆が全然人気のない人をからかい始める時に、私も参加してしまいました。その人が私の友だちではなかったけど、私は悪かったです。

神様はこの箇所で言われました。

悪を行う権力者の側に立ってはならない。(出エジプト記23:2)

英語では少し違う翻訳です。それは、「悪を行う群衆にならうな。その悪い行いを真似するな。」ということです。

この箇所は特に不当な証言について述べています。つまり、皆が不当な証言をしても、あなたは皆にならって不当な証言をしてはなりません。

十戒の話で、私はゴシップと中傷について既に書きましたので、今回はそのことをあまり焦点に当てません。

けれども、その二つの点で、群衆(多数決の意見)にならうのは簡単です。誰かが他の人を悪口し始めると、あなたも悪口を言い始める。「そう、そう、彼はね…」

しかし、そんな話は人を破壊し、教会も破壊します。

どれくらい、誰かが牧師を批判し、他の人も参加することで、すぐに牧師が包囲攻撃の状態になるでしょうか。

神様はそのようなことを憎まれます。だから、神様は命じられました。「群衆についていくな。そんな悪い言葉を言うな。」

どの状況でも、悪を行う群衆についていってはなりません。

どれくらい、私たちはそうするでしょうか。

どれくらい私たちは「皆がそうしているから」と言うでしょうか。

それは言い訳にはなりません。

神様は私たちが群衆についていくことを望んでおられません。

私たちが神様についていくことを望んでおられるのです。

それは教会に行くときだけではなく、職場でも、家庭でも、どこにいても、神様は私たちが御自身についていくことを望んでおられるのです。