そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。
「見よ。これは、これらすべての言葉に関して、主があなた方と結ばれる契約の血である。(出エジプト24:8)
これは、私の契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。(マタイ26:28)
その言葉が私は印象に残っています。
旧約聖書と新約聖書の中で、私たちは初めて「契約の血」という言葉を目にします。
両方の契約は血によって結ばれました。
どちらも神様と神様の民との契約関係の始まりでした。
それでも、この二つの契約には大きな違いがあります。
一つ目の違いは、初めの契約では、神様との関係が全く親しくなかったことです。神様はモーセにこう言われました。
あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、主のところに上り、遠く離れて伏し拝む。
モーセ一人主のもとに近づけ。
他の者は近づいてはならない。民もモーセと一緒に上ってはならない。(出エジプト24:1ー2)
一方で、新しい契約においては、誰もが神様に近づくことを許されているのです。さらに、私たちは「神様に近づきましょう」と招かれているのです。(ヘブル10:19ー22)
二つ目は、初めの契約はその民の行動によるものでした。
モーセはその契約を読んだあとで、みなは答えました。
「主の仰せられたことはみな行ない、聞き従います。」(7節)
ところが、結局イスラエル人は不従順でした。イスラエルの歴史は彼らの不従順の記録です。だから、何回も彼らはその契約を破りました。
しかし、新しい契約は、十字架におけるイエス様の死によって与えられた恵みに基づいているのです。
パウロはこう記しました。
あなたがたは、恵みゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。誰も誇ることのないためです。(エペソ2:8ー9)
初めの契約は雄牛の血でした。けれども、その血は罪を除くことができませんでした。(ヘブル10:4)
新しい契約の血はイエス様の血でした。その血は私たちを罪から清めてくださいます。(第一ヨハネ1:7)
初めの契約では、律法が石の板に書いてありました。律法に従うのは私たちの努力だけによるものでした。
新しい契約では律法は私たちの心に書いてあります。(ヘブル8:10)
そして、神様が私たちの心の中で働いて変えるので、私たちは従うことができるようになります。
最後の比較の言葉はヘブル人への手紙の著者に任せます。
あなたがたは、手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗やみ、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに近づいているのではありません。
このとどろきは、これを聞いた者たちが、それ以上一言も加えてもらいたくないと願ったものです。
彼らは、「たとい、獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」というその命令に耐えることができなかったのです。
また、その光景があまり恐ろしかったので、モーセは、「私は恐れて、震える」と言いました。
しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。
また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血に近づいています。。。
こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。
こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。
私たちの神は焼き尽くす火です。(ヘブル書12:18ー24;28ー29)
