それでは、幕屋について話しましょう。私にとって一番興味深いのは聖所と至聖所の話です。
聖所の中には供えのパンと燭台と金の香壇がありました。
至聖所の中には契約の箱がありました。
至聖所は神様の住んでおられるところとみなされました。けれども、神様がおられる至聖所に入るには供えのパンと燭台を通り過ぎなくてはなりませんでした。
私たちがもう学んだように、その二つの物はイエス様の象徴でした。
そのように、イエス様は言われました。
わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 (ヨハネ14:6)
父なる神様との関係を求めるなら、命のパン、また世の光であるイエス様を通して行かなくてはなりません。他の道はありません。
多くの人々はその教えが嫌いです。
どうして、イエス様を通して行かなくてはならないのでしょうか。
なぜ、他の道では神様のもとへ行くことができないのでしょうか。
なぜ、仏陀を通して行くことはできないのでしょうか。
なぜ、モハンマドを通して行くことはできないのでしょうか。
なぜ、ヒンドゥー教や他の宗教ではだめなのでしょうか。
なぜならば、神様は聖なる方ですが、私たちはそうではないからです。
そして、私たちが学んだように、私たちのような人々が神様との関係を築くためには、私たちの罪のために贖いが必要です。
それを成し遂げられたのは、ただイエス様おひとりなのです。
イエス様は完全な生涯を送られました。まったく罪を犯されることはありませんでした。
仏陀は完全な人生を生きなかったのです。
モハンマドも完全な人生を生きなかったのです。
イエス様だけが「私は完全だ」と言うことができるのです。
そして、完全で罪のない方だけが、有罪の者の代わりに罰を受けることができるのです。
聖所と至聖所の間には垂れ幕があって、大祭司だけが入ることができました。一年に一回だけ入ることができました。
入る時には、イスラエル人の罪を贖うために、血の供え物を持っていかなければなりませんでした。
しかし、イエス様が死なれた時に、
手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル書9:11-12)
だから、イエス様が死なれた後で、神殿の幕は上から下まで真っ二つに裂けました。(マタイ27:51)
私たちと神様の間に立っていた壁は永遠に降ろされました。だから、私たちは神様との関係を持つことができるようになりました。
仏陀は、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。
モハンマドも、他の宗教の指導者たちも、私たちの罪のために贖いを成し遂げたのではありません。
イエス様だけがそれを成し遂げてくださいました。だから、イエス様だけを通して、私たちは神様の前に行くことができるのです。
神様を知りたいと願っていますか。もしそうなら、イエス様を通して神様のもとへ行かなければなりません。
イエス様は命のパンです。
イエス様は世の光です。
しかし、何よりも大切なのは、イエス様こそ父なる神様の御前に出ることができる唯一の道です。
