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出エジプト記

罪の問題を扱うこと

出エジプト記27章

私の妻と結婚した直後、そのおじいさんが亡くなり、私たちは通夜と葬式に行きました。おじいさんは仏教徒だったので、仏教の式でした。

通夜の時に、お坊さんは少し興味深いことを語りました。つまり、阿弥陀の愛と恵みによって、人々は天国に行くことができるということです。

キリスト教のメッセージと似ていたので、私の妻は少し驚きました。

私が大学生の時に、私もそう思いました。

その時、私は宗教の授業に出席しました。授業で、教授は阿弥陀の礼拝について語りました。それは、阿弥陀の恵みと愛によって人々が救われるという教えでした。

それを聞いて、私も驚きました。初めて、キリスト教以外にそのようなメッセージを聞いたからです。だから、私は考えました。

「キリスト教とその仏教はどう違うのでしょうか。」

答えはすぐに出ました。阿弥陀の宗教は罪の問題を全然扱っていません。

罪は赦されますが、正義が全くありません。阿弥陀は罪を罰しません。

キリスト教は違います。赦しがありますが、代価があります。正義のために、代価を払わなければなりません。

だから、旧約聖書の時代に、神様は罪のために犠牲を要求されました。

もし、誰かが幕屋の庭に入るなら、一番最初に見るのが犠牲のための祭壇です。

庭に入るには戸口が一つしかなく、祭壇も一つしかありません。なぜならば、神様は皆に何かを伝えたかったからです。それは、神様の前に行く道が一つしかなく、罪を扱うために一つの方法しかないということです。

牡牛か山羊が祭壇に連れて行かれ、殺されて、祭壇の上で焼かれました。

その犠牲を通して、神様が私たちに思い出させたかったのは、二つのことです。

一つ目は、私たちは皆、罪を犯します。そして、罪は深刻な問題なので、その結果はいつも死です。

二つ目は、全世界の罪のためにもっと完全な犠牲を捧げる日を指し示していました。

どうして、イエス様の犠牲はもっと完全だったのでしょうか。

一つ目は、牡牛は死を選択しませんでした。むしろ、祭壇に連れて行かれて死んだのです。

二つ目は、牡牛は正しい行動と悪い行動の違いをよく理解していませんでした。

牡牛は無罪でしたが、罪を犯すかどうかを選択することができませんでした。つまり、選択によって無罪ではなく、無知によって無罪だったのです。

三つ目は、牡牛がどんなに完全であっても、牡牛の命は人間の命とは等しくありません。

しかし、イエス様がこの世界に来られたとき、人間として来られました。人間としては私たちと等しく、神様としては私たちより偉大な方でした。

だから、イエス様はご自身の偉大な命を、私たちの命の代わりに捧げてくださいました。

それに、イエス様は義と罪の意味をよく理解しておられましたが、義の道をいつも選ばれました。イエス様の罪の無さはご自身の選択によるものでした。

最後に、イエス様の犠牲はご自身の選択でした。イエス様は死なないことを選ぶことができましたが、私たちに対する愛のために死んでくださいました。

こういうわけで、イエス様の犠牲はもっと完全でした。そして、イエス様が死んだとき、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。

ヘブル10:14には、こう書いてあります。

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

幕屋の庭にある祭壇は罪の問題を思い出させます。

阿弥陀の宗教はその問題を扱いません。他の宗教は罪を扱うためにいろいろな良い行動を要求します。

しかし、神様の庭に入るには一つの戸口しかなかったように、一つの祭壇しかなかったように、罪の問題を扱うには一つの方法しかありません。それはイエス・キリストです。

イエス様だけを通して、罪を扱うことができます。

あなたの罪はどうですか。もう赦されましたか。ローマ書6:23には、こう書いてあります。

罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

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