この箇所を読んで、心に残ったのは祭司の服についての言葉でした。つまり、その服のデザインは祭司に栄光と美を与えるためのものでした。
英訳では「尊厳と名誉」を与えるためとされています。
もちろん、祭司たちは完ぺきな人ではありませんでした。
大祭司が至聖所に入ったときに、ただイスラエル人のために犠牲の血を捧げるだけでなく、自分自身の罪のためにも犠牲の血を捧げました。
しかし、祭司たちは罪人であったのに、神様は彼らを尊厳と名誉に値する者とみなされました。そして、神様はイスラエル人が祭司たちを尊敬するよう望まれたので、彼らに栄光と美を与える服を着せられました。
この箇所から、私たちは二つのことを学ぶことができると思います。
一つ目は、祭司たちが尊厳と名誉に値するものとみなされたように、私たちは教会で牧師やリーダーを尊厳と栄誉に値する人とみなすべきだということです。
祭司たちのように、私たちの牧師たちは完ぺきな人ではありません。それでも、神様は彼らを私たちに仕えるように呼ばれました。
イエス様の十字架の働きによって、彼らの罪は赦され、イエス様を着せられました。神様は彼らに尊厳と名誉を着せられました。
だから、私たちも彼らをそのようにみなすべきなのです。
ヘブル人への手紙の作者はこう書いています。
あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。
ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(へブル書13:17)
パウロも書きました。
よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。(第一テモテ5:17)
どれほど多くの教会が、牧師が尊厳と名誉に値する者とみなされずに崩壊してしまったことでしょうか。
そのメンバーたちは牧師を攻撃したり、ゴシップのネタにしたり、文句を言ったりして、尊敬しませんでした。神様は牧師を教会の世話をするために呼ばれたのに。
多くの牧師たちはこのような問題によって、ミニストリーが崩壊しました。けれども、それは神様の御心ではありません。私たちは牧師たちが尊厳と名誉に値する人とみなすべきです。神様はそう考えられますから。
しかし、旧約聖書時代の祭司について考えるとき、私たちはあることを心に留めなければなりません。私たちも祭司として呼ばれたのです。(第一ペテロ2:4、9;黙示録1:6)。
そして、神様の前に来るときに、私たちもイエス様を着せられました。
イエス様の血によって私たちの罪は覆われ、私たちの過去について恥じる必要がありません。私たちは赦され、神様からの尊厳と名誉を与えられました。
多くのクリスチャンは「神様はあなたを神の国のために用いたいのです」と聞きますが、彼らはこう考えます。
「どうやって、神様は私を用いることができるでしょうか。私は価値がない。特別な賜物とか才能がないし。それに、私の過去はすごく悪かった。神様は私のような人を用いることができないでしょう?」
しかし、神様があなたをご覧になるとき、そうは思われません。あなたはイエス様を着せられ、あなたの罪は赦されました。
神様はあなたの罪を見られません。あなたの失敗を見られません。あなたの恥を見られません。むしろ、神様はご自身が尊厳と名誉を着せた人を見られます。
だから、神様はあなたを祭司として呼んでおられます。周りの人に触れるようにあなたを呼んでおられます。
あなたは自分自身をどのように考えていますか。神様が尊厳と名誉を着せられた者として考えていますか。
それとも、ただ自分の恥だけを考えていますか。
神様はあなたが自分自身をそのように考えることを望んでおられないのです。あなたは神様の祭司です。神様からの尊厳と名誉を着ています。だから、そのように生きましょう。
