パウロはこう書きました。
あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。(コリント人への手紙第一6:19ー20)
その言葉は大祭司の額の上に置かれた言葉を反映しています。「主への聖なるもの」。
聖なるというのは「選り分けた」という意味です。
神様の祭司として、私は神様のために選り分けられたのです。私たちはもはや自分自身のものではなく、神様のものとなったのです。
祭司たちの聖別式から、私たちは「主への聖なる」の意味を学ぶことができると思います。
一つ目は、私たちは聖なる者になるために代価が必要でした。
アロンとその息子たちを聖別した時に、牡牛が殺されました。牡牛を殺した時に、アロンとその息子たちは手を牡牛の頭の上に置きました。
その意味は、その牡牛は彼らの咎を取り、彼らの罪のために死んだということです。
同様に、私たちはイエス様の血によって買われました。イエス様は私たちの咎を取り、私たちの罪のために死なれました。
4節では、水で祭司たちが洗われたように、イエス様の血によって私たちの罪は洗い去られました。
祭司たちは洗われた後で、祭司の服を着せられました。同様に、私たちもイエス・キリストを着せられました。イエス様はご自身の血によって私たちの罪と咎を覆われるのです。
ゼカリヤ書3:1ー5には、素晴らしい例があります。
その後、全焼のいけにえがありました。その時、雄羊を全部祭壇の上で焼きました。
同様に、私たちは神様の祭司として、私たちの人生のすべてを神様に捧げるべきです。
次に雄羊をもう一匹犠牲にしました。
その血を祭司たちの右の耳たぶと右の手の親指と右の足の親指につけました。なぜなら、祭司たちの耳と手と足が主の働きのために捧げられた象徴だからです。
同様に、私たちは祭司として、主の言葉に聞く耳と神様の命令に従う手と神様についていく足が必要です。
もう一つの興味深いことがあります。
雄羊の脂肪とたねの入れないパンと油を入れた輪型のパンとせんべいを主に向かって揺り動かして、焼きました。
けれども、アロンとその息子たちは雄羊の胸とももを食事として与えられました。
神様はこう語ろうとされたのだと思います。もし、私たちが自分自身を神様に捧げたら、神様も私たちに良い物を与えてくださいます。
私たちは神様にたくさん捧げると思うかもしれませんが、神様は私たちに豊かな人生を与えてくださいます。
私はイエス様に従うためにハワイを出て、日本に来た時に、多くの事を犠牲にしました。しかし、神様からもっと素晴らしいものをもらったので全然後悔はありません。
誰かが神様に従うなら、神様はその人を必ず祝福されます。
この命令をイスラエル人に与えられた後、神様が約束されたのは、神様がイスラエル人に会い、彼らに語り、彼らの間に住まわれることなのです。
同様に、神様は私たちに会い、私たちに語り、私たちの間に住まわれることを約束しておられるのです。
あなたは主への聖なるものでしょうか。あなたがクリスチャンであれば、それは当然です。
あなたは代価を払って買い取られたからです。
今、あなたは主のものなのです。だから、私たちはこのように祈るのが良いのです。
「主よ。私の耳も、私の手も、私の足も、そして私の人生もあなたのものなのです。」

One reply on “神様のために選り分けられた”
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