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レビ記

血の意味

日本では、だいたい皆さんは自分の血液型を知っています。だから、多くの人は友達に聞きます。「あなたの血液型は何ですか。」

長い間、たくさんの人が私にその質問をしてきましたが、私は「知りません」と答えてきました。

皆さんは驚いて、こう聞きます。 「でも、もし入院して血液が必要になったら、どうするのですか。」

けれども、多分、そんな状態だったら、私はもう意識がない状態だと思うので、その質問は意味がないと思います。

とにかく、やっと私は自分の血液型を知るようになりました。

私はA型です。血液型について考えると、皆さんはその人にいろいろな意味をつけます。

A型なら、責任感が強いけれど、少し頑固なところがあります。O型なら、責任に対して少しルーズな傾向があります。AB型なら、優しいけれど、決断するのに時間がかかることがあります。

しかし、神様は、人の血と動物の血に対して、それぞれ異なる意味をお与えになりました。そしてこの箇所では、犠牲の意味と、それがなぜ必要なのかを教えてくださいます。11節には、こう書かれています。

なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。(レビ記17:11)

神様は血を命と関連づけておられます。罪のための罰は死であるため、罪深い人が赦されるには、無罪の者がその罰を受けなければなりません。その人の血、つまりその人の命は、私たちの命のために捧げられなければならないのです。

旧約聖書の時代には、動物の命が人の命の代わりに捧げられていました。しかし、それは完全な犠牲の象徴にすぎませんでした。つまり、イエス様が十字架で私たちの罪のために死んでくださったことを指し示していたのです。

イエス様の死によって、私たちはもはや動物を犠牲として捧げる必要はなくなりました。イエス様こそ、最後の、完全な犠牲です。

ヘブル人への手紙の作者はこう言いました。

血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。。。

しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られ るのです。(ヘブル9:22、26ー28)

私の好きな賛美歌には、次のように書かれています。

あなたの血は私を清めてくださる
あなたの血は私に永遠の命を与えてくださる

あなたの血は贖う犠牲によって
私の罪を取り去ってくださる

その血は私を清めてくださり、
雪よりも私を白くしてくださる
私のイエス様。あなたは神様の尊い犠牲です。

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レビ記

贖い

毎年一度、イスラエル人は贖罪の日をお祝いしました。その日、皆は罪を告白し、神様は、象徴を通して、本当の贖いがどのように来るかを示されました。

贖罪の日には、いくつか興味深いことがあります。一つは、仕事をしてはいけないことでした。

なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、の前でそのすべての罪からきよめられるのである。(レビ記16:30)

その象徴がはっきりしています。イスラエル人は自分の努力で罪を贖うことができませんでした。むしろ、彼らの贖いがなされたのです。自分の働きによって罪を清めることができず、ただ大祭司の働きによって罪が清められました。

そのように、私たちの働きによって自分の罪を清めることはできません。私たちの努力が私たちを救うことはできず、大祭司イエス・キリストの十字架の働きだけが私たちを救うことができます。

二つ目は、大祭司しかだれも幕屋に入って神様の前に来ることができませんでした。大祭司が皆のために罪を贖う時、他の祭司でも幕屋に入ることができませんでした。

そのように、イエス様が十字架で罪を贖われた時、他の人はその働きをすることができませんでした。使徒でも、祭司でもできませんでした。イエス様だけができたのです。イエス様が言われたように、

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネ14:6)

三つ目は、二匹の山羊が選ばれました。一匹は皆の罪のために死にました。そして、大祭司は二匹の山羊の頭の上に手を置いて、皆の罪を告白しました。そのあとで、その山羊を砂漠に連れて行き、解放しました。もはや誰もその山羊を見ませんでした。

これはイエス・キリストの働きの素晴らしい象徴でした。イエス様は十字架で、私たちの罪のために罰を受けてくださいました。その罪を負った時に、私たちからその罪を取り去ってくださいました。

詩篇103:12で、こう書かれています。

東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。

イエス様、あなたの愛を感謝します。あなたは私たちの大祭司として、罪を贖ってくださいました。私たちが自分を救うために何もできない時に、あなたは助けてくださり、ありがとうございます。

私たちの罪を負って、東が西から遠く離れているように私たちの罪を私たちから取り去ってくださったことを感謝します。

あなたの恵みとあわれみを感謝します。今、私があなたの働きによって神様に近づくことができることを感謝します。アーメン。

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清いもの、汚れたもの

速く進んでいますね。4日間で15章を読みました。すごいです!とにかく、この箇所はイスラエル人にとってとても大切なことです。それは清いものと汚れたものの区別についてです。この箇所の鍵はレビ記11:45に書いてあります。

わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出したであるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。

つまり、神様が聖い方ですから、神様はイスラエル人も聖くなるように望まれました。だから、清いものと汚れたものというコンセプトがありました。47節で、神様は言われました。

汚れたものときよいもの。。。とが区別される。

どうして神様はそんなに細かく清いものと汚れたものというルールを作られたのでしょうか。私がすべてを理解しているとは言えません。一般的に、たぶん健康的および衛生的な理由でそのルールがあったかもしれません。

神様が具体的な科学的な説明をされることもできたでしょうが、そうしたら、たぶんイスラエル人は理解できなかったかもしれません。だから、神様はただ「これは清いものだが、これは汚れたものだ」と言われました。

いずれにせよ、この清いものと汚れたものの話から二つのことが学べると思います。

まず第一に、イスラエル人を汚すものがあったということです。そして、神様は言われました。

あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。(レビ記15:31)

つまり、神様との関係のために、イスラエル人は清くならなければなりません。私たちもその通りです。

しかし、神様は食べ物やかび(レビ記13:47のツァラアトというのはかびということです)、皮膚病についてそんなに心配しておられません。むしろ、神様は私たちの心を汚すものについて心配しておられます。それは何でしょうか。イエス様はこう言われました。

人から出るもの、これが、人を汚すのです。

内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、 盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ 7:20ー23)

つまり、神様の目で、私たちの罪は私たちを汚します。だから、神様と親しい関係が欲しいなら、罪から逃げなければなりません。

二つ目は、かびと伝染病のように、気をつけないと私たちの人生に罪が広がります。それに、罪は私たちから広がって他の人に触れます。例えば、子供たちは両親の罪を見て、真似します。また、私たちの罪で他の人を傷つけます。

だから、かびと伝染病のように、私たちは極端な方法で罪を扱わなければなりません。かびが壁に出ていた時に、イスラエル人は壁の部分を取り除きました。もし、その後で、かびがまた出たら、その家を壊してしまいました。

伝染病の場合は、その皮膚病のある人は皆から離れて、一人で住まなければなりませんでした。

そのように、私たちは罪を扱わなければなりません。イエス様はこう言われました。

もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。

もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29ー30)

もちろん、イエス様は大げさに言われましたが、その意味は罪を自分の人生から追い出すために、極端に扱うべきだということです。

この箇所のテーマは聖さです。私たちは神様の前に聖いでしょうか。神様はこう言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」

聖なる者になるために、イエス様は十字架で死なれました。私たちを赦してくださったし、私たちが聖なる者となるために力を与えてくださいました。

ペテロはこう書きました。

というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二ペテロ1:3)

良い知らせは、私たちが自分の力で聖なる者になる必要がないということなのです。神様がその力を与えてくださったのですから、そのように生きていきましょう。

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私たちが神様を聖とみなすこと

それでは、レビ記10章を読みましょう。

6-7章は捧げ物についてのさらなる戒めがありました。8-9章は祭司の聖職授任式についてです。その式の意味をすでに出エジプト記のブログで説明しました。

10章では、もう一つの不快な話があります。アロンの二人の息子たちは香を盛ったときに、神様の命令に従わずに捧げたため、神様がその二人を殺されました。

どうして神様はその二人を殺されたのでしょうか。その二人はそんなに悪かったのでしょうか。私たちは二つのことを思い出さなければなりません。

まず第一に、その二人は祭司でした。以前私が書いたように、祭司たちは普通の人よりも神様に対して責任がありました。

第二に、その二人は無意識に罪を犯したわけではありません。その二人は意識して罪を犯しました。

出エジプト記30:9で、神様が特別な香を使いなさいと命じられたのに、その二人は自分の香を使ったようです。それに、神様がつけた火を使わずに(9章)、祭司たちは自分でつけた火を使ったようです。それも神様の命令に対する不従順でした。

もう一つの可能性は、その二人が酔ったときにその香を盛ったことです。だから、9節で神様は命じられました。

会見の天幕に入って行くときには、あなたがたが死なないように、あなたも、あなたとともにいるあなたがたの子らも、ぶどう酒や強い酒を飲んではならない。(レビ記10:9)

この箇所の鍵は3節です。神様は言われました。

わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現し、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現す。(レビ記10:3)

つまり、その祭司たちは、神様の方法でせずに、自分の方法ですることによって、神様が聖なる方であることを忘れました。神様が尊敬されるべき方であることを忘れました。

祭司たちにとっては本当に深刻な問題です。なぜなら、皆は祭司たちから霊的なリーダーシップを求めました。もし、リーダーたちが神様が聖なる方とみなさないと、皆はどうするでしょうか。

私たちはどうですか。神様が聖なる方とみなすでしょうか。

多くの場合、私たちは神様の愛と恵みについて話しますが、神様の聖を忘れます。つまり、神様は罪が大嫌いです。また、神様は聖い方です。そのことを忘れると、私たちは不純なことをします。そして、そのことによって、私たちが祭司たちでも、神様の名前を汚します。

神様はアロンにこう言われました。

それはまた、あなたがたが、聖なるものと俗なるもの、また、汚れたものときよいものを区別するため、また、がモーセを通してイスラエル人に告げられたすべてのおきてを、あなたがたが彼らに教えるためである。(10-11)

神様の祭司として、私たちは聖なるものと俗なるものを区別しなくてはなりません。汚れたものと清いものを区別しなくてはなりません。

それに、区別できない人たちに私たちは光になるべきです。しかし、私たちが皆と同じだったら、どのように光になるでしょうか。

もちろん神様は恵みと愛の神なのです。

それでも、私たちは神様が聖なる方であることを思い起こさなくてはなりません。

毎日そのことを心に留めて生きていきましょう。

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レビ記

罪についての5つのポイント

この箇所で、罪のためのいけにえについてたくさんの興味深いことがあります。そのいけにえを通して、私たちは罪について、さまざまなことを学びます。

誰が罪を犯したかによって、異なる捧げ物が必要でした。

祭司の場合は、雄牛を捧げなければなりませんでした。リーダーの場合は、雄やぎが必要でした。普通の人の場合は、雌やぎか雌子羊か山鳩か家鳩が必要でした。もし、その人が非常に貧しかったら、小麦粉を捧げました。

なぜでしょうか。それは、人の立場が高いほど、また、知識が多いほど、罪のための責任が大きくなるからです。

神様の代表として、祭司は最も大きな責任を負っていました。リーダーは人々の支配者として、大きな責任を負っていましたが、祭司よりは少し小さかったのです。普通の人たちは最も小さな責任を負っていました。イエス様はこう言われました。

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しか し、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者 は多く要求されます。(ルカ12:47ー48)

二つ目のポイントは、人が自分の罪に気づいていなくても、やはり有罪です。自分の罪が分かるようになったら、罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちは自分の罪を無視してはいけません。「私は知らなかったから、仕方がない」とは言えません。

また、「その罪は昔のことだから、もういいです。悔い改める必要がない」とは言えません。

罪は罪です。いつ犯したか、犯したときに気づいたかどうかは関係ありません。私たちは有罪です。だから、罪の償いをしなければなりません。

三つ目のポイントは、罪は悪行だけではなく、罪は正しいことをしないことも含まれます。神様はこう言われました。

人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら—彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに—、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。(レビ記5:1)

この場合、その人は裁判で何かを言わなければなりませんでしたが、黙っていたために、正義が行われませんでした。それも罪です。

ヤコブはこう言いました。

こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)

四つ目のポイントは、あなたが罪を犯すつもりがなかったのに、罪を犯したら、やはり有罪です。

レビ記5:2-5では、うっかり罪を犯す場合、または不用意に罪を犯す場合について述べられています。その人たちはわざと罪を犯していませんでしたが、意図があったかどうかは関係ありませんでした。やはり有罪でした。

最後に、償いをしなければならない罪があります。つまり、「ごめんなさい」と言っても足りない場合があります。

レビ記6章では、人を騙したり、人から何かを盗んだりした場合、「ごめんなさい」と言っても足りません。犠牲を捧げても足りません。罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちも誰かを本当に傷つけた場合は、償いをしなければなりません。

ありがたいことに、私たちはもう旧約聖書の捧げ物を捧げなくても良いのです。イエス様は罪のための最後の犠牲でした。しかし、イスラエル人のように、私たちもまだ罪を告白し、悔い改めなければなりません。第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

神様、あなたは私の罪のために代価を払ってくださって感謝します。あなたの前で私の心がいつも清いようにしてください。

私の罪を示し、清めてください。私が意図的な罪を犯さないように。また、私が不用意に罪を犯さないように。私が償いをしなければならない時に、謙遜であるように助けてください。

あなたの恵みと赦しを与えてくださり、感謝します。アーメン。

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レビ記

神様に近づくこと

それでは、レビ記を始めましょう。

私はレビ記を読むことをとても楽しみだとは言えません。出エジプト記のように、律法や規則、ルールがいっぱいあり、時々とても細かいです。だから、少しつまらないところもありますが、頑張ってみましょう。

今日は捧げ物について話します。

「捧げ物」という言葉は面白いです。「捧げ物」というのはヘブル語で「近づける」という言葉から来ています。つまり、イスラエル人は神様に近づくために捧げ物を捧げたのです。最初の3つの捧げ物を見てみましょう。

最初のは、全焼のいけにえという捧げ物です。私たちは出エジプト記でこの捧げ物について読みました。祭司が神様のために聖別された時に、全焼のいけにえを捧げました。

けれども、レビ記の場合は、皆がその捧げ物を捧げました。

その捧げ物のために、傷のない雄牛を捧げなければなりませんでした。そして、祭司は全部を焼いていました。

この捧げ物には2つの意味がありました。一つは、その捧げ物は罪の贖いのために捧げられました。この捧げ物はイエス様を指していました。つまり、イエス様は完全な神様の子羊として、私たちの罪のために死んでくださいました。

二つ目の意味は、私たちは神様に全てを捧げるということです。何も控えずに全てを捧げるのです。

二つ目の捧げ物は穀物の捧げ物です。これは感謝の捧げ物です。その捧げ物は乳香と一緒に焼かれて、主へのなだめのかおりとなりました。

三つ目の捧げ物は和解のいけにえです。全焼のいけにえのように、「代わり」というシンボリズムがありました。つまり、その動物は人の代わりに罪のために死にました。

しかし、全焼のいけにえと異なり、全部が焼かれたわけではありませんでした。捧げた人はそのいけにえの部分を持って帰り、家族と一緒に食べました。

その捧げ物の意味は、私たちの罪が赦されたことによって、私たちは神様と平和で親しい関係を築くことができるということです。多分、天国の盛大な宴会で食べる日を指しています。

その3つの捧げ物は自発的でした。神様に対する愛によって、皆はこれらの捧げ物を捧げました。

そして、その3つの捧げ物は私たちの神様との関係の絵です。

一つの絵はキリストを通して、私たちは神様と和解することができることです(和解の捧げ物)。ローマ書5:1で、こう書かれています。

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

二つ目の絵は私たちが神様にすべてを捧げるということです(全焼のいけにえ)。つまり、私たちの人生のすべては神様のものです。「ローマ書12:1」に、こう書かれています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

三つ目のは神様に対しての感謝です。つまり、神様は私たちの物理的な必要を備え、私たちの霊的な必要を備えてくださいました。ローマ書8:32で、こう書かれています。

私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

神様、イエス様の十字架の働きによって私たちがあなたと和解できることを感謝します。その働きによって、私たちはあなたに近づくことができ、親しい関係を築くことができることを感謝します。

全焼のいけにえのように、私があなたに全てを捧げるように助けてください。感謝で満たされた心を与えてください。あなたを愛して、感謝します。アーメン。

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出エジプト記

主が命じられたとおりに

出エジプト記の最後の5章は幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

25章から31章までは、モーセがその命令を聞きました。

そして、36章から40章までは、イスラエル人がその命令に従いました。

その箇所の中で、同じフレーズを何度も読みます。

それは、「モーセとイスラエル人は主が命じられた通りに行った。」

例えば、39章にはこう書かれています。

イスラエル人は、すべて、がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行った。

モーセが、すべての仕事を彼らが、まことにが命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した。(出エジプト記39:42ー43)

40章でも、そのフレーズを8回読むことができます。

イスラエル人は主の命令に従うときに近道をしませんでした。

誰も、「この命令は細かすぎます。私のやり方でする。」とは言いませんでした。

むしろ、イスラエル人は主が命じられた通りに全てを行いました。

全てを仕上げた後、34ー38節にはこう書かれています。

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、の栄光が幕屋に満ちた。

モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、の栄光が幕屋に満ちていたからである。

イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

イスラエル全家の者は旅路にある間、昼はの雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

あなたの人生に神様の働きを見たいですか。あなたの人生に神様の導きを求めていますか。

神様のポイントははっきりしていると思います。

神様に従いなさい。

大きいことだけでなく、小さいことでも、神様に従いなさい。

私たちが神様に従うなら、私たちの人生が神様の栄光で満たされ、神様の導きを知るようになります。

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出エジプト記

捧げたい心、仕えたい心

それでは、もうすぐ出エジプト記が終わります。残りは大体幕屋の作り方の命令の繰り返しです。

けれども、この箇所で、私が印象に残っているのは、イスラエル人の心です。

神様はこう言われたのです。

「心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが捧げなさい。

心に動かされた者、そして心から進んでする者だけが仕えなさい。」

神様はイスラエル人がいやいやながら捧げることを望まれませんでした。

イスラエル人が強いられて、仕えることを望まれませんでした。

神様はイスラエル人が心から与えて、仕えることを望まれました。

そして、皆はそうしました。結局、皆は有り余るほど捧げたのでモーセが「もういいです。もう十分ありますから、もう捧げないでください。」と言いました。

教会はそのような場所であるべきです。

教会の皆は捧げて仕えるべきです。それは、しなければならないという考え方ではなく、むしろ、神様が心に与えた喜びからするべきです。

パウロはこう書きました。

ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。(第二コリント9:7)

この箇所は与えることについて話していますが、神様に仕えることも同じです。

神様は、私たちがいやいやながら仕えることを望んでおられないのです。

神様は、私たちが心から仕えたいと願って仕えることを望んでおられるのです。

もし、しなければならない気持ちで仕えたり、与えたりしたら、与える喜びと仕える喜びを理解することはできず、神様があなたの供え物を受け入れられません。

あなたはどんな心から与えるでしょうか。どんな心から仕えるでしょうか。

あなたは、皆があなたを見て、「ああ、素晴らしいクリスチャンだね」と言ってほしいでしょうか。

あなたは良いクリスチャンであるためにしなければならないと思って仕えるのでしょうか。

そのような理由で与えるのでしょうか。

それとも、神様があなたに素晴らしい人生を与えてくださっていることに感謝して仕え、与えるのでしょうか。

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出エジプト記

愛の神様、正義の神様

神様はどのようなお方なのでしょうか。

神様の御性質は何なのでしょうか。

神様はご自身をモーセに現わされた時、その質問に答えられました。神様はこう言われました。

主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者。(出エジプト記34:6-7)

旧約聖書の中で、その言葉は何度も何度も繰り返されています。言葉がほとんど変わらずに、5回も書かれています。(出エジプト記34:6ー7;ネヘミヤ記9:17;詩篇86:15;ヨエル書2:13;ヨナ書4:2)

主はあわれみ深いです。

聖書を読むと、たくさんの例が見られます。

荒野で、神様はハガルという人を二度助けられました。

最初はアブラハムと寝て妊娠した時に、サライに追い出されました。

そして、イサクが生まれた時に、ハガルとイシュマエルがもう一度追い出されました。

けれども、神様はハガルと話し、励まされました。そして、ハガルとイシュマエルを世話されました。

神様は情け深いです。

英語の聖書では「恵み深い」という言葉が使われています。

つまり、私たちが値しないのに、神様は多くの良きものを与えてくださるのです。

例えば、ヤコブは神様から与えられたものに値しなかったのです。

ヤコブは詐欺師であり、とても頑固でした。彼はいつも自分の道を行こうとしていました。

けれども、ヤコブが恐れて兄エサウから逃げた時、神様はヤコブに会いに来られたのです。

そして、アブラハムとイサクに与えられた約束をヤコブにも与えてくださったのです。

さらに、神様はエサウの心の中に働かれたので、ヤコブはエサウと和解することができたのです。

神様は怒るのに遅く、恵みとまことに富む方です。

アダムとエバが罪を犯した時、神様は怒りに燃えておられませんでした。むしろ、愛とご自身の忠実さを表されました。つまり、服を備え、救い主を送ることを約束されました。

神様は恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者です。

神様はその恵みをイスラエル人に示されました。何度もイスラエル人が反抗したのに、何度も神様は赦して下さいました。神様はイスラエル人を絶えず愛し続けておられたのです。

皆は神様についてそのような言葉が大好きです。私たちは神様の愛とあわれみと赦しについて聞くのが大好きです。

しかし、それだけでは神様の全体を理解できません。神様はこれも言われました。

罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。(7)

以前、私はその言葉の意味を説明しましたが、覚えておかなければならないのは、神様は正義の神だということです。

多くの人々はそのことが好きですが、自分自身も罰を受けなければならないことを聞いたら、文句を言い始めます。

「私はそんなに悪くないよ。私はたくさんのいいことをしています。

私は時々嘘をつくかもしれないけど、みんなもそうするでしょう?

そして、どうして彼女と関係を持つことが悪いのでしょうか。彼女を愛していますよ。

時々妻と子供に対して怒るけど、仕方ないです。このようなことで私は地獄に行かなければならないのでしょうか。」

そうです。人は地獄に行かなければならないのです。神様はすべての罪を必ず罰しなければなりません。

神様は忍耐強いですが、もし私たちが悔い改めなければ、罰を受けることになるのです。

神様に反抗したまま亡くなるなら、神様と共に住むことはできません。永遠に神様から離れ、地獄に行くことになるのです。

しかし、いい知らせがあります。あなたは地獄に行く必要がありません。

イエス様は十字架で死なれて、あなたの罪のために罰を受けてくださいました。

そして、イエス様の働きを信じて、赦しを求めたら、神様があなたの罪を赦してくださいます。

けれども、自分の道を行き続けてはいけません。神様に反抗し続けるなら、「神様は愛の神だから、もちろん私を赦してくださいます」とは言えません。

神様は愛の神です。しかし、神様は正義の神でもあります。

もし、神様の救いの道を拒絶し、つまりイエス様を拒絶したら、神様の正義に直面することになります。

ヘブル人への手紙にはこう書いてあります。

もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。

ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。

だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。

私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。

生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。(26-31)

だから、私たちはもはや神様に反抗しないようにしましょう。

神様は私たちにあわれみを与えたいのです。私たちが悔い改めるなら、神様は赦してくださるのです。

もしまだしていないなら、今日こそ悔い改めましょう。

第二コリント6章2節に書かれているように、

今は恵みの時、今は救いの日です。