この箇所で、罪のためのいけにえについてたくさんの興味深いことがあります。そのいけにえを通して、私たちは罪について、さまざまなことを学びます。
誰が罪を犯したかによって、異なる捧げ物が必要でした。
祭司の場合は、雄牛を捧げなければなりませんでした。リーダーの場合は、雄やぎが必要でした。普通の人の場合は、雌やぎか雌子羊か山鳩か家鳩が必要でした。もし、その人が非常に貧しかったら、小麦粉を捧げました。
なぜでしょうか。それは、人の立場が高いほど、また、知識が多いほど、罪のための責任が大きくなるからです。
神様の代表として、祭司は最も大きな責任を負っていました。リーダーは人々の支配者として、大きな責任を負っていましたが、祭司よりは少し小さかったのです。普通の人たちは最も小さな責任を負っていました。イエス様はこう言われました。
主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。しか し、知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは、打たれても、少しで済みます。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者 は多く要求されます。(ルカ12:47ー48)
二つ目のポイントは、人が自分の罪に気づいていなくても、やはり有罪です。自分の罪が分かるようになったら、罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちは自分の罪を無視してはいけません。「私は知らなかったから、仕方がない」とは言えません。
また、「その罪は昔のことだから、もういいです。悔い改める必要がない」とは言えません。
罪は罪です。いつ犯したか、犯したときに気づいたかどうかは関係ありません。私たちは有罪です。だから、罪の償いをしなければなりません。
三つ目のポイントは、罪は悪行だけではなく、罪は正しいことをしないことも含まれます。神様はこう言われました。
人が罪を犯す場合、すなわち、証言しなければのろわれるという声を聞きながら—彼がそれを見ているとか、知っている証人であるのに—、そのことについて証言しないなら、その人は罪の咎を負わなければならない。(レビ記5:1)
この場合、その人は裁判で何かを言わなければなりませんでしたが、黙っていたために、正義が行われませんでした。それも罪です。
ヤコブはこう言いました。
こういうわけで、なずべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。(ヤコブ4:17)
四つ目のポイントは、あなたが罪を犯すつもりがなかったのに、罪を犯したら、やはり有罪です。
レビ記5:2-5では、うっかり罪を犯す場合、または不用意に罪を犯す場合について述べられています。その人たちはわざと罪を犯していませんでしたが、意図があったかどうかは関係ありませんでした。やはり有罪でした。
最後に、償いをしなければならない罪があります。つまり、「ごめんなさい」と言っても足りない場合があります。
レビ記6章では、人を騙したり、人から何かを盗んだりした場合、「ごめんなさい」と言っても足りません。犠牲を捧げても足りません。罪の償いをしなければなりません。そのように、私たちも誰かを本当に傷つけた場合は、償いをしなければなりません。
ありがたいことに、私たちはもう旧約聖書の捧げ物を捧げなくても良いのです。イエス様は罪のための最後の犠牲でした。しかし、イスラエル人のように、私たちもまだ罪を告白し、悔い改めなければなりません。第一ヨハネ1:9には、こう書かれています。
もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
神様、あなたは私の罪のために代価を払ってくださって感謝します。あなたの前で私の心がいつも清いようにしてください。
私の罪を示し、清めてください。私が意図的な罪を犯さないように。また、私が不用意に罪を犯さないように。私が償いをしなければならない時に、謙遜であるように助けてください。
あなたの恵みと赦しを与えてくださり、感謝します。アーメン。
