速く進んでいますね。4日間で15章を読みました。すごいです!とにかく、この箇所はイスラエル人にとってとても大切なことです。それは清いものと汚れたものの区別についてです。この箇所の鍵はレビ記11:45に書いてあります。
わたしは、あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から導き出した主であるから。あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。
つまり、神様が聖い方ですから、神様はイスラエル人も聖くなるように望まれました。だから、清いものと汚れたものというコンセプトがありました。47節で、神様は言われました。
汚れたものときよいもの。。。とが区別される。
どうして神様はそんなに細かく清いものと汚れたものというルールを作られたのでしょうか。私がすべてを理解しているとは言えません。一般的に、たぶん健康的および衛生的な理由でそのルールがあったかもしれません。
神様が具体的な科学的な説明をされることもできたでしょうが、そうしたら、たぶんイスラエル人は理解できなかったかもしれません。だから、神様はただ「これは清いものだが、これは汚れたものだ」と言われました。
いずれにせよ、この清いものと汚れたものの話から二つのことが学べると思います。
まず第一に、イスラエル人を汚すものがあったということです。そして、神様は言われました。
あなたがたは、イスラエル人をその汚れから離れさせなさい。彼らの間にあるわたしの幕屋を汚し、その汚れたままで彼らが死ぬことのないためである。(レビ記15:31)
つまり、神様との関係のために、イスラエル人は清くならなければなりません。私たちもその通りです。
しかし、神様は食べ物やかび(レビ記13:47のツァラアトというのはかびということです)、皮膚病についてそんなに心配しておられません。むしろ、神様は私たちの心を汚すものについて心配しておられます。それは何でしょうか。イエス様はこう言われました。
人から出るもの、これが、人を汚すのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、 盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。(マルコ 7:20ー23)
つまり、神様の目で、私たちの罪は私たちを汚します。だから、神様と親しい関係が欲しいなら、罪から逃げなければなりません。
二つ目は、かびと伝染病のように、気をつけないと私たちの人生に罪が広がります。それに、罪は私たちから広がって他の人に触れます。例えば、子供たちは両親の罪を見て、真似します。また、私たちの罪で他の人を傷つけます。
だから、かびと伝染病のように、私たちは極端な方法で罪を扱わなければなりません。かびが壁に出ていた時に、イスラエル人は壁の部分を取り除きました。もし、その後で、かびがまた出たら、その家を壊してしまいました。
伝染病の場合は、その皮膚病のある人は皆から離れて、一人で住まなければなりませんでした。
そのように、私たちは罪を扱わなければなりません。イエス様はこう言われました。
もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。
もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、から だ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。(マタイ5:29ー30)
もちろん、イエス様は大げさに言われましたが、その意味は罪を自分の人生から追い出すために、極端に扱うべきだということです。
この箇所のテーマは聖さです。私たちは神様の前に聖いでしょうか。神様はこう言われました。「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから。」
聖なる者になるために、イエス様は十字架で死なれました。私たちを赦してくださったし、私たちが聖なる者となるために力を与えてくださいました。
ペテロはこう書きました。
というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。(第二ペテロ1:3)
良い知らせは、私たちが自分の力で聖なる者になる必要がないということなのです。神様がその力を与えてくださったのですから、そのように生きていきましょう。
