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レビ記

私たちに対しての神様の望み

レビ記26:1ー13

「神様は私たちから何を望んでおられるでしょうか。」

多くの人がその質問をします。そして、この箇所を読んだら、彼らが答えを見つけると考えます。つまり、神様は私たちの服従を望んでおられます。だから、彼らは神様の律法に焦点を当てて、頑張って従います。

でも、結局、彼らが頑張っても、完全に律法に従わないから、その律法が重すぎる荷物になって、がっかりするようになります。

しかし、この箇所を読むと、私は別の疑問の答えを見つけました。それは、「神様は私たちに対して、何を望んでおられるでしょうか。」

わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

わたしはあなたがたを、奴隷の身分から救い出すためにエジプトの地から連れ出したあなたがたの神、である。

わたしはあなたがたのくびきの横木を打ち砕き、あなたがたをまっすぐに立たせて歩かせた。(レビ記26:12-13)

神様は私たちに対して何を望んでおられるでしょうか。一つ目は、私たちと親しい関係を望んでおられます。毎日、私たちの隣に歩みたいのです。私たちが神様の民として神様を愛して仰ぎ、神様が私たちを愛の目で見てくださる関係を望んでおられます。

二つ目は、私たちの自由を望んでおられます。だから、イスラエル人をエジプトから解放してくださったのです。そのように、神様は私たちを罪の鎖とサタンの国から解放してくださったのです。

三つ目は、私たちがまっすぐに立って歩くことを望んでおられます。つまり、私たちが罪からの恥を感じながら歩くことを望んでおられません。神様が私たちを愛し、受け入れてくださるかどうかを思い悩むことを望んでおられないのです。

むしろ、私たちの罪が贖われて、私たちが神様と良い関係にあるから、胸を張って立ち、歩くことを望んでおられます。

これは、神様との関係が始まるところです。神様の命令に頑張って従うことではなくて、むしろ、神様が私たちの人生に触れて、罪の鎖を砕き、その恥を取り去ることから始まります。そして、神様と親しい関係があるから、毎日神様と歩くことができるのです。

神様の民として、神様とともに歩み、従うなら、祝福が訪れます。

神様が私たちの必要を備えてくださる(4ー5節)。

神様の平安を知るようになります。もはや、将来のことを恐れる必要がありません。私たちの将来が神様の手にあることを知っているからです。(6節)

勝利を知るようになります。罪と戦うときに、また、サタンとその悪霊と戦うときに、私たちは圧倒的に勝つのです。(7-8節)

私たちは実を結びます。私たちの家族と仕事とミニストリーの中で、神様の国のためにたくさんの実を結びます。

最後に、私たちの人生に神様の臨在を感じることができます(11-12節)。神様は私たちを決して離れず、また私たちを捨てないと約束してくださったのです。

それが神様の望みです。私たちが神様の望みと神様の働きに焦点を当てたら、神様に従うことはそんなに大変な重荷にはならないでしょう。

罪の鎖を砕くために、神様の命令に従うのではありません。神様の愛を得るために神様の命令に従うのではありません。

むしろ、私たちの鎖がすでに砕かれて、私たちがすでに神様の愛を受け取っているから、神様に従うのです。

そのことに焦点を当てたら、服従は重荷にはならないでしょう。むしろ、服従は喜びになります。

ヨハネが書いたように、

神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(第一ヨハネ5:3)

2 replies on “私たちに対しての神様の望み”

お誕生日おめでとうございます。
猛暑が続きますがお変わりなくお過ごしでしょうか。
幸多き一年を!
Shoko

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