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民数紀

主のために聖別している

民数記6:1ー21

聖書の時代には、人々が時折、自分の人生を一時的に神様に聖別することがありました。その際、ナジルの誓いを立てました。

ナジルとして神様に仕えるために、三つの誓いを守りました。

一つ目は、ぶどう酒を飲まず、ぶどうから作られた食べ物を口にしないことでした。

二つ目は、髪の毛を切らずに伸ばしておくことでした。

三つ目は、死体の近くに近づかないことでした。

聖書の中には、有名なナジルとして知られる人々が何人かいます。例えば、サムソンとバプテスマのヨハネです。

この二人は神様から特別な働きを与えられました。サムソンはイスラエル人をペリシテ人から救い出すために選ばれ、ヨハネはイスラエル人をイエス様に備えるために選ばれました。

では、私たちはそこから何を学べるでしょうか。

ナジルの人々は意識して自分自身を神様に捧げました。

同じように、クリスチャンとして私たちもそのように呼ばれています。パウロはこう書いています。

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。

あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ12:1)

つまり、私たちは自分の体を神様が用いることができるものとして捧げるべきです。神様に受け入れられるものとして体を捧げるべきです。

パウロの言葉によれば、その行動は神様への礼拝です。

礼拝とは賛美するだけではありません。

礼拝とは、自分の人生を神様に捧げることなのです。

それならば、私たちも髪の毛を伸ばしておかなければならないとか、ぶどう酒を飲んではいけないとか、死体の近くにいてはいけないのでしょうか。

それも違います。とはいえ、ナジルの誓いから学ぶことができるのです。

一つ目は、神様のために聖別された者として、聖霊様に満たされ、自分の人生を聖霊様の導きに委ねるべきだということです。

パウロはこう書いています。

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

ぶどう酒を決して飲んではいけない、という意味ではありません。けれども、ぶどう酒があなたの人生を支配することを許してはいけません。

それだけでなく、他のものがあなたの人生をコントロールすることも許してはいけないのです。

インターネット、ポルノ、仕事、趣味など――何があなたの人生を支配していますか。

それとも、他のものがあなたの人生を支配しているのでしょうか。

何があなたの時間を支配していますか。

何があなたの思いを支配していますか。

神様ですか。

それとも、他のものでしょうか。

二つ目は、私たちが神様のために聖別されたことについて、大胆に伝えるべきだということです。

聖書の時代には、ナジルの髪の毛が周りの人々に「私は神様のものです」と示しました。

人々はナジルの人を見ると、すぐに分かりました。「この人は神様に捧げられた人だ」と。

そのように、周りの人々が私たちを見たとき、私たちがクリスチャンであることを知るべきです。

時々、クリスチャンはこう言います。

「私は静かな証人です。私は多くの良い行いをして、多分、彼は私がクリスチャンだと知っているでしょう。だから、何も言う必要はありませんよね?」と。

けれども、多くの「良い人」がクリスチャンではありません。

もし、私たちが何も言わなければ、彼らは「この人は良いクリスチャンだ」とは考えません。

ただ「この人は良い人だ」と考えるだけです。

もちろん、私たちの行動は重要です。それは、私たちの証しの証拠となるからです。

しかし、行動だけでは不十分です。何かを語らなければならないのです。

三つ目は、私たちは死んだものから離れるべきだということです。

ここで言う「死んだもの」とは、文字通りの死体ではありません。むしろ、死へと導く罪から離れるべきだということです。

パウロはこう書いています。

それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。

そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、(第2コリント6:17)

以前言ったように、ナジルの人々は一時的に自分の人生を神様に捧げました。

一方で、私たちは命の限り、神様にすべてを捧げるように呼ばれています。

なぜでしょうか。それは、イエス様がご自身の人生を私たちのために捧げてくださったからです。

イエス様は天国を離れ、この世に来られ、私たちの罪のために十字架で死なれました。

だからこそ、神様のあわれみに応えて、私たちは神様に人生を捧げるのです。神様がそのあわれみを私たちの人生に注いでくださったからです。

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