金の子牛の事件の時に、レビ人が神様のための情熱を示したため、神様は彼らを仕えるために選ばれました。
しかし、神様に仕える前に、彼らの罪は贖われる必要があり、また体は洗われなければなりませんでした。
その後で、神様の前に立たせられたのです。その全てを経てから、彼らは神様に仕えることができました。
この箇所から、4つのことを学べると思います。
一つ目は、神様に仕えるために、私たちは情熱だけでは足りないということです。神様に仕える前に、イエス様の血によって私たちの罪は清められなければなりません。
神様の一番大切な命令は、私たちが悔い改め、罪の赦しのためにイエス様を信じることです。その命令を拒否した場合、私たちがどのようにして神様に仕えることができるでしょうか。
二つ目は、私たちが神様に仕えたいと願うなら、自分自身を神様に捧げる必要があるということです。
ローマ書12:1には、「私たちはからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と書かれています。
そうしなければ、神様は私たちを十分に用いることができません。
その決断をする際、私たちはこう言います。「私はあなたに仕えるためのものです。私を用いてください。」
そうすることで、神様は自由に私たちを用いることができます。ローマ書6:13にはこのように記されています。
むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
3つ目は、自分の方法で神様に仕えることができません。
レビ人はそのようなことをしませんでした。むしろ、祭司たちに従ったのです。
そのように、私たちは大祭司イエス様に従います。
最後に、神様に仕える人生の順番は、まず私たちが清められてから仕えることです。
多くの人は「神様に仕えたら、また、良いことをたくさんしたら、私が清められる」と考えます。
しかし、もし私たちの罪が清められなければ、神様の目に私たちの働きは汚れた着物のように映るのです。(イザヤ書64:6)
まず清められる必要があります。その後でこそ、神様は私たちの行動を受け入れてくださるのです。
