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民数紀

神様の方法に従って、神様のタイミングを待つ

民数記9章

私は20代くらいで結婚すると思っていました。

兄は28歳の時に結婚しましたし、姉は26歳の時に結婚しましたから、「27歳くらいで結婚するのかなあ」と思っていました。

けれども、30代まで待たなければなりませんでした。時々フラストレーションを感じることもありましたが、神様のタイミングで、ふさわしい人を与えてくださいました。

結婚に対して、私は神様の基準を決して妥協しませんでしたが、時々誘惑を感じました。

しかし、クリスチャンの友の中には、その誘惑と戦った末に、結局神様の基準を妥協してしまった人もいたのです。

その人たちを責めているわけではありません。その人たちを裁けば、私自身をも裁かなければならないからです。私はその基準を妥協しませんでしたが、時々他のところで妥協してしまいました。

けれども、クリスチャンとして、私たちは神様の方法に従い、神様のタイミングを待つことを学ばなければなりません。

それが9章の教訓です。

9章の最初は過越の祭りについての話です。

神様は全員がその祭りに参加することを命じられましたが、誰かが亡くなり、その親族がその死体によって「身を汚した」のです。

神様の律法によれば、身が汚れた人は過越のいけにえを捧げることができませんでした。そのため、その人たちはモーセにアドバイスを求めました。

モーセは自分の意見を述べることはせず、こう言いました。

待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。(民数記9:8)

神様の答えを聞いた後、その人たちは神様の言葉に従いました。

その後、この箇所には、神様がどのようにイスラエル人を導かれたかが書かれています。

神様の臨在を表す雲が幕屋を覆いました。

そして、

雲が天幕を離れて上ると、すぐそのあとで、イスラエル人はいつも旅立った。

そして、雲がとどまるその場所で、イスラエル人は宿営していた。(17)

雲が離れて上がらない限り、イスラエル人はどこにも行きませんでした。

一年たっても、イスラエル人は雲の先に進みませんでした。むしろ、彼らは神様のタイミングを待ちました。

聖書には、こう書かれています。

人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。(箴言14:12)

時々、私たちは何をするべきか知っていると思うことがあります。時々、私たちが神様よりも知っていると思うこともあります。

けれども、私たちが神様の導きを求めなければ、大変な状態になります。

また、神様のタイミングを待てないと思い、自分自身の道を行った場合には、大変な問題が起こるのです。

私たちが神様の道を行き、神様のタイミングを待てば、私たちの人生はうまくいくはずなのに、どうして私たちは自分の道を行ってしまうのでしょうか。

妻や夫を探すときに。もっと良い仕事を探すときに。どんな状況でも、神様の道を行くほうが良いのではないでしょうか。

それでも、多くの場合、私たちは自分の道を行ってしまうのです。

神様を信頼することは難しいです。

時々、私たちは長い時間を待たなければなりません。イスラエル人は一年待っていて、少しせっかちになったかもしれません。

きっと、「いつ神様が約束を守られるのでしょうか。いつカナンに行けるのでしょうか」と思ったことでしょう。

しかし、神様は一番良いことをご存じであり、「私を信頼してください」と言われていました。神様は私たちにも同じメッセージを与えてくださるのです。

神様、時々、私は自分の人生について考えると、がっかりしてしまいます。なぜならば、私の人生は希望通りに進まないからです。

そして、私は時々こう考えます。「神様のために待って、神様の道を歩き続けたほうが良いでしょうか。それとも、もう神様の道を諦めて、自分の道を行ったほうが良いでしょうか。」

神様、私があなたに従うように助けてください。

これまで私はあなたの道を行き、あなたのタイミングを待ったときに、あなたはいつも忠実でした。だから私が疲れたとき、そのことを思い出すことができるように助けてください。

また、私ががっかりして、せっかちなときに、あなたが良い方であることを思い出すように助けてください。

私があなたの道を行き、あなたのタイミングを待つことができるように助けてください。アーメン。

One reply on “神様の方法に従って、神様のタイミングを待つ”

待つことについて教えてくれてどうもありがとうございます!!信仰は待ち勝負でもあるのですね!w。

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