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民数紀

妬んでいる

民数記11ー12章

時々、私は自分の性質が違っていたら良かったのにと思います。実際、私はそのように考えることがよくあります。

例えば、私がとてもシャイではなかったらどんなに良いかと思うのです。たくさんの人の前で話すのは全然平気ですけれどね。高校でスピーチクラブに参加していましたから。

でも、新しい人に会うのはどうでしょうか?それはとても難しいです。

パーティーでたくさんの人と一緒にいること?あまり得意ではありません。

めちゃくちゃフレンドリーな人を見ると、少し羨ましく感じます。

「私もそんな性格だったらいいのに。どうして神様は私をこのように創られたのでしょうか」と思ってしまいます。

妬みにはさまざまな種類があります。

そして、特に教会では、妬みが問題を引き起こすことがあります。なぜならば、その結果として人が傷付き、教会が分裂し、ミニストリーが壊れてしまうことがあるからです。

ヨシュアでさえ妬みを抱いていました。

多くの人は自分の役割を他の人に渡したくないと感じます。

民数記11章では、モーセのためにヨシュアがそのように感じました。

それ以前、モーセは神様の御霊に特別なアクセスを持っていました。特に、神様の知恵と力に対してです。他の人々にはそのアクセスがありませんでした。

けれども、ある日モーセは「このリーダーシップの重荷が重すぎる。私はもう耐えられない」と文句を言ったのです。

そこで、神様は答えられました。

イ スラエルの長老たちのうちから、あなたがよく知っている民の長老で、そのつかさである者七十人をわたしのために集め、彼らを会見の天幕に連れて来て、そこ であなたのそばに立たせよ。

わたしは降りて行って、その所であなたと語り、あなたの上にある霊のいくらかを取って彼らの上に置こう。

それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あな たはただひとりで負うことがないようになろう。 (民数記11:16ー17)

70人が呼ばれましたが、68人しか来ませんでした。

では、残りの2人はどうして来なかったのでしょうか?私たちには分かりませんが、そのメッセージを聞いていなかったのかもしれません。または、そのメッセージを無視した可能性もあります。忙しすぎたのかもしれません。

いずれにせよ、彼らは来ませんでした。それでも、神様はその68人だけでなく、来ていなかった2人にも御霊を注がれました。

その結果、皆が預言し始めたのです。

ヨシュアはそれを聞くと怒りました。ヨシュアはその2人に対して怒ったのでしょうが、他の68人に対しても怒っていたのでしょうか。私たちには分かりません。

ただ、その2人について聞いたとき、ヨシュアは文句を言いました。おそらくヨシュアはこう考えたのでしょう。

「その2人は私たちの仲間じゃない。最初からここに来ていれば良いのに、来なかった。それなのに、なぜその2人にも神様の御霊が与えられたのだろう。」

この話は、新約聖書の一つの出来事に似ています。

イエス様の名前によって悪霊を追い出している人がいましたが、その人はイエス様の12人の弟子たちの仲間ではありませんでした。そこで、弟子たちは怒り、その人を止めさせたのです。

同じように、ヨシュアもモーセに「その人たちを止めさせてください」と言いました。

しかし、モーセはこう答えたのです。

あなたは私のためを思ってねたみを起こしているのか。

の民がみな、預言者となればよいのに。が彼あの上にご自分の霊を与えられるとよいのに。(民数記11:29)

私たちも、そのような態度を取るべきです。

時々、私たちはミニストリーに参加しますが、他の人も参加したいと思うことがあります。

そのとき、私たちは怒って「これは私のミニストリーだ」と言うことがあります。

けれども、そのような考え方は間違っています。

神様はご自身の目的のためにミニストリーを私たちに与えてくださいました。そのミニストリーは私たちのものではありません。

そして、他の人が参加し始めることを歓迎すべきです。神様がより多くの人に御霊を注がれることを望むべきです。なぜなら、その新しい人々を通して、より多くの人々が祝福されるようになるからです。

教会の中や教会同士の間に妬みの余地はありません。

収穫の主が人々を救うために、さらに多くの働き手を送ってくださるよう祈るべきです。そして、その働き手が私たちよりも優れた方法でミニストリーを行うことができるのなら、感謝すべきです。

なぜなら、神様の国が広がっており、その国の中で私たちはそれぞれの役割を持っているのです。

しかし、もう一つの妬みの形があります。

ミリヤムとアロンにはそのような妬みがありました。その二人はモーセの立場について文句を言いました。そして、彼らはこう言ったのです。

はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。(民数記12:2)

それだけではなく、彼らはモーセのクシュ人との結婚を批判しました。なぜなら、モーセの権威を弱体化させようとしたかったからです。

そのため、神様はその二人を叱られました。

けれども、私たちも時々同じようなことをしてしまいます。

私たちは教会の中で他の人の立場を欲しがり、その人を批判して、「私のほうが上手ですよ」と言ったり、「どうして彼はそのようにするのでしょうか。私なら、違う方法でやりますよ」と言ったりします。

また、彼らのミニストリーを批判できないとき、私たちは他のことを批判します。

しかし、その批判が正しくても正しくなくても、神様は喜ばれません。

神様はご自身の意志によって、それぞれのクリスチャンに霊的な賜物を与えてくださいます。私たちは皆、教会の中でそれぞれの立場があります。

ですから、私たちは神様が与えてくださった賜物に満足し、神様の御心によって仕えるべきです。

たとえ誰かがより高い立場にあったとしても、あるいはミニストリーをうまく進めるために他の人と役割を分けなければならなくても、妬むことなく、喜んでその役割を果たすべきです。

この歌の歌詞を心に留め、その態度を実践しましょう。

あなたの栄光、
あなたの御国、
そしてあなたの名前のために、
私はここにおります。

どうか私を用いてください。

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