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軽率な言葉、軽率な行動

みんなはいつか限界点に達します。

誰かがあなたを傷つけることがあるかもしれません。

誰かがいつもあなたを怒らせることがあるかもしれません。

そして、あなたはその怒りと傷を心に保ち、隠し続けるかもしれません。けれども、圧力は少しずつ高まり、最終的には爆発してしまうでしょう。

モーセもそのような経験をしました。

モーセは世の中で最も謙遜な人でしたが、40年間ずっとイスラエル人の文句と反抗的な態度に耐えていました。

そして、神様が何度もイスラエル人のニーズを満たされたのに、彼らはまた文句を言い始めました。

ああ、私たちの兄弟たちが主の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。

なぜ、あなたがたは主の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。(民数記20:3-4)

(イスラエル人がその事件を見て、主を恐れたのに、もう一度文句を言い始めるのが私は信じられません。)

なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。(5)

モーセが主の前に出たとき、神様はこのように言われました。

杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。

あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。

あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。(8)

モーセが本当にこう考えたかどうかは分かりません。けれども、多分イスラエル人の所に戻る途中で、モーセはこう思ったかもしれません。

「この人たちは信じられない。なぜ彼らの文句を何度も聞かなければならないのでしょうか。

40年だよ!40年間、繰り返し彼らの文句を聞き続けていた。

でも、問題はイスラエル人だけじゃない。なぜ神様は毎日しっかり備えてくださらないのでしょうか。

そうすれば、私は誰の文句を聞く必要もないのに。

「岩を打て!」

「岩に命じよ!」

すべて無駄だ!」

そして、やっと皆が岩に到着すると、モーセのフラストレーションが湧き上がりました。

モーセは皆に向かって叫びました。

逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。(10節)

そして、モーセは岩に命令せず、岩を打つと、水が流れ出てきました。

神様は恵みを示され、水を与えてくださいました。それでも、神様はその行動を喜ばれませんでした。

そして、神様はモーセにこう言われました。

あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。

それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。(12)

詩篇106:32-33には、このように書かれています。

彼らはさらに、メリバの水のほとりで主を怒らせた。

それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。

軽率な言葉。

軽率な行動。

その言葉と行動によって、神様への信頼を欠いた態度、また神様を尊敬しない態度を示してしまいました。それは、モーセがコントロールを失い、怒りに負けてしまったからです。

しかし、私たちはどれほど同じことをしているでしょうか。私たちは怒りによって軽率な言葉を口にします。または、傷つけられたことで軽率な行動を取ってしまいます。

以前、私は砂漠の岩がイエス様の象徴であることを話しました。(第一コリント10:4)

その岩を一度だけ打つことで水が出てきましたが、その後は命じるだけで水が流れ出ました。

同じように、イエス様は十字架で私たちの救いのために一度だけ打たれました。そして今、私たちはイエス様に話しかけ、「あなたは主」と告白し、赦しを願うことで、生きた水、つまり永遠の命を受け取ることができます。

しかし、もし私たちが感情に負けて、イエス様への信頼を欠いた言葉を発したり、イエス様を尊敬しない行動を取ったりすれば、それはもう一度イエス様を打つようなものです。

そのように、アダムとエバも神様への信頼を欠き、背いたため、イエス様が十字架に行かなくてはなりませんでした。

なぜ、私たちが救われたのに、不信仰と不尊敬な態度を示し続けるのでしょうか。

私たちは皆、傷つけられることがあります。私たちは皆、怒ることもあります。

けれども、その時に、私たちはどのように振る舞うべきでしょうか。

傷つけられても、神様への信頼を示し行動するでしょうか。神様を敬って行動するでしょうか。

それとも、軽率な言葉や行動によってイエス様を打つのでしょうか。

パウロはこのように書いています。

怒っても、罪を犯してはなりません。

日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。(エペソ4:26ー27)

私たちが怒りを持ち続け、その怒りが化膿してしまうと、悪魔に機会を与えてしまいます。そして、軽率な言葉や行動が出てきてしまいます。

ですから、悪魔にそのような機会を決して与えないでください。

むしろ、私たちの言葉と行動を通して、イエス様を信頼し、尊敬しましょう。イエス様はその価値があるお方だからです。

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清められた

私は旧約聖書の時代に生きていなくて良かったと思います。宗教的な儀式が数多くあるので、きっと私は混乱してしまうでしょう。

しかし、神様はその儀式を通して、神様がどのような方であるか、私たちが誰であるか、そして神様が私たちにどのような人になってほしいかを示されました。

この箇所で、神様は清める儀式を通して、罪について教えられ、また私たちと神様との関係についても教えられています。

一つ目は、罪を無視することができないということです。

誰かが儀式的に汚れると、水で清めを行わなければなりませんでした。その儀式的な洗いを無視してはなりませんでした。

もし、その儀式を無視すると、集会から断ち切られることになりました。

なぜでしょうか。それは、自分を清めないと神様の聖所を汚してしまうからです。(民数紀19:13、20節)

同じように、私たちが人生の中で罪を持ち続けると、神様の宮、つまり私たちの体を汚してしまいます。

私たちがクリスチャンになった時から、聖霊が私たちの内に住み始めました。ですから、私たちの体は神様の聖所です。

もし私たちの心の中に罪があれば、その心を清めなければなりません。その罪を無視してはならないのです。

そのため、すべての人が天国に行けるわけではありません。清められていない罪深い人たちが天国に入ると、天国の聖所を汚してしまいます。

神様はそれを許されないので、そのような人たちは神様から断ち切られることになります。

二つ目は、清い人だけが汚れた人を清めることができたということです。(18–19節)

そのように、イエス様だけが私たちを罪から清めることができます。それは、イエス様だけが完全に清い方だからです。イエス様は決して罪を犯されませんでした。

興味深いのは、人を清める水を作るために、雌牛の灰が必要とされたという点です。しかし、その灰を作る人は、その行いによって汚れることになりました。

同じように、イエス様も一時的に汚れることになられました。つまり、イエス様が十字架で死なれた時、全世界の罪がイエス様の上に置かれました。

第二コリント5:21には、このように書かれています。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

三つ目は、清めることをしない言い訳がなかったということです。なぜなら、清められる方法は本当に簡単なものでした。その水が必要であれば、誰でも受け取ることができたからです。

ですから、もし誰かが清めをせず、そのために集会から断ち切られることになったなら、それはその人自身の責任です。

同じように、もし誰かが神様の救いを拒絶し、地獄に行くことになったなら、それはその人自身の責任です。

救われることは決して難しいことではありません。イエス・キリストの御名を呼び求めれば、すぐに来て、あなたを救ってくださいます。

ローマ書10:13には、このように書かれています。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

救いは本当に簡単なことです。そのため、誰も言い訳をすることはできません。

イエス・キリストを拒絶する人には、神様の怒りしかありません。そして、その人は永遠に神様から断ち切られることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は清められていますか。あなたは赦されていますか。

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祭司職の賜物

神様の民として、私たちは数多くの賜物をいただきました。救いの賜物をいただき、永遠の命の賜物をいただき、御霊の賜物もいただきました。

しかし、私たちはさらにもう一つの賜物をいただきました。

神様はアロンにこう言われました。

わたしはあなたがたの祭司職の賜物の奉仕として与える (民数記18:7)

神様は私たちにも、その賜物を与えてくださいました。

イスラエル人の中ではアロンとその息子たちだけがその賜物をいただきましたが、私たちは異なる祭司職をいただきました。

この祭司職はすべてのイエス・キリストを信じる人々のためのものです。男性であっても女性であっても、ユダヤ人であっても異邦人であっても、私たちは皆、神様の前で祭司です。

ガラテヤ人への手紙3:28には、このように書かれています。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。

また、黙示録1:6には、このように書かれています。

「イエス様は」私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。

どうして祭司職が賜物だと言えるのでしょうか。

それは、私たちがその立場を得るために働くことができないからです。

アロンとその息子たちは神様によって祭司として選ばれました。その後、その子孫だけが祭司になることができました。

けれども、神様がアロンとその息子たちを選ばれた理由は、彼らが他の人々よりも聖なる人だったからではありません。アロンとその息子たちも、しばしば失敗しました。

そのように、私たちはイエス・キリストを信じることによって神様の家族に生まれ、神様の祭司とされました。

私たちはその賜物を得るために働いたわけではありません。また、私たちは他の人々よりも聖なる人ではありません。それでも、この祭司職は賜物として私たちに与えられました。

ですから、この賜物を真剣に考えなければなりません。神様はアロンとその息子たちに、この賜物を大切にしなさいと命じられました。神様はこのように言われました。

あなたと、あなたとともにいるあなたの子たちと、あなたの父の家の者たちは、聖所にかかわる咎を負わなければならない。

そしてあなたと、あなたとともにいるあなたの子たちが、あなたの祭司職にかかわる咎を負わなければならない。(民数記18:1)

私たちが覚えていなければならないのは、私たちの体が神様の宮であり聖所であるということです。

そして、私たちは祭司として罪を犯すと、神様の聖所を汚します。それに、私たちは神様がくださった祭司職も汚します。

そのような場合、神様の目の前で私たちは責任を負うことになります。

しかし、この賜物は本当に大きな特権です。それは、私たちが神様の前に来ることができるからです。

旧約聖書の時代の祭司たちよりも、私たちはさらに大きな特権があります。

大祭司だけが一年に一度、至聖所に入ることができました。至聖所で大祭司は神様の前に来ることができました。

一方で、私たちは皆、いつでも神様の前に来ることができます。

さらに、この祭司職は生きている神様に仕える特権です。神様は私たちを通してこの世界に触れられます。

アロンの祭司職はイスラエルに触れるためのものでしたが、私たちには全世界に触れる祭司職があります。

あなたはこの賜物についてどのように考えるでしょうか。真剣に考えているでしょうか。

この祭司職のミニストリーを感謝しているでしょうか。そして、この賜物を使って周りの人々に触れているでしょうか。

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誰についていっているでしょうか

ついていったほうがよいリーダーはたくさんいますが、ついていかないほうがよいリーダーもたくさんいます。問題は、悪いリーダーについていくと、彼があなたを穴に引きずり込んでしまうのです。

数年前、私の社長は全くダメなリーダーで、会社は倒産してしまいました。

実は、私はその会社をもっと早く辞めたほうがよかったのですが、ずっとそのリーダーについていたため、結局、私も大変な状態になってしまったのです。

イスラエルの民も同じ教訓を学びました。コラとダタンとアビラムという人々はモーセに反抗し、さらに250人のリーダーとその従う者たちを説得して反抗させたのです。

彼らの最も大きな不満は、モーセがイスラエルの民を神様の約束の地へまだ導いていないということでした。むしろ、皆はずっと荒野をさまよっていたのです。

しかし、彼らは2つのことを忘れていました。

第一に、神様はモーセに何をすべきかを教えておられ、モーセは自分で決断したのではなく、神様に従っていたのです。

第二に、彼ら自身の以前の反抗によってカナンに入ることができなかったのであり、それはモーセのせいではなかったのです。

けれども、もう一つの不満は、コラと他のレビ人が自分の立場に満足していなかったということでした。彼らは祭司を助ける務めを担わなくてはならなかったのですが、むしろ祭司そのものになりたいと望んでいたのです。

だから、彼らは「モーセは力を愛している独裁者だ」と言ったのです。(これは私の意訳です。)

ダタンとアビラムはモーセの前に出ることを拒んだので、モーセとイスラエルの民はその二人のもとへ行きました。

神様はダタンとアビラムに従う者たちを滅ぼそうとされたのですが、モーセがとりなしたため、神様はモーセに語られたのです。

この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。(民数記16:24)

そして地面が割れて、地はその口を開き、コラ、ダタン、アビラム、そしてその家族を飲み込みました。その後、主のところから火が出て、その250人のリーダーたちを焼き尽くしました。

それでも多くのイスラエル人は文句を言い続けました。

あなたがたは主の民を殺した。(民数記16:41)

神様はそれを聞いて怒られ、彼らを神罰で打たれました。

モーセとアロンはすぐに取りなしをしましたが、多くの人々が亡くなりました。

その後、神様はこう言われました。

イスラエル人に告げて、彼らから、杖を、父の家ごとに一本ずつ、彼らの父祖の家のすべての族長から十二本の杖を、取れ。

その杖にはおのおのの名を書きしるさなければならない。レビの杖にはアロンの名を書かなければならない。彼らの父祖の家のかしらにそれぞれ一本の杖とするから。

あなたはそれらを、会見の天幕の中わたしがそこであなたがたに会うあかしの箱の前に置け。

わたしが選ぶ人の杖は芽を出す。こうしてイスラエル人があなたがたに向かってつぶやく不平をわたし自身が静めよう。(民数記17:1ー5)

その12人は杖を持ってきて、次の日には、アロンの杖が芽を吹き、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいました。

その奇跡によって、皆は神様が誰をリーダーとして選ばれたのかを理解するようになりました。

あなたは誰についていっているでしょうか。どのような状況であれ、それは大切なことですが、霊的な状況において特に重要です。

どのような牧師があなたの教会を導いているでしょうか。

どのクリスチャンの本を読んでいるでしょうか。

インターネットやポッドキャストでどのクリスチャン牧師の話を聞いているでしょうか。

霊的なリーダーにとって何が大切でしょうか。

第一に、その人の心が神様に属していることです。つまり、彼らは心を尽くして神様を愛しているのです。

第二に、彼らが周りの人を真に愛しているかどうかということです。

第三に、彼らが謙遜な人であることです。モーセは世界で最も謙遜な人でした。イエス様もまた謙遜なお方でした。そのような人にこそ、ついていくべきなのです。

自分の立場に全く執着せず、他の人が自分に仕えることを求めるのではなく、むしろ自ら他の人に仕える人です。

第四に、神様の御言葉を正しく教えることです。残念ながら、多くの人はそうしていないのです。彼らは神様を愛し、周りの人をも愛していますが、その教えは神様の御言葉と比べると異なっています。

そのため、その人たちに従う者たちは、神様の御言葉に対して誤った考えを抱くようになってしまうのです。

最後に、そのリーダーの行動は言葉と一致していなければなりません。もちろん、リーダーも罪と戦いますが、その罪について語るときには、「私にとっても難しいのです」と正直に認めるほうが良いでしょう。

イスラエルの民は悪いリーダーに従ったために苦しみました。

同じように、私たちも注意しなければ、苦しむことになるのです。

では、あなたは誰に従っているのでしょうか。

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私の畳の部屋には、キャビネットの扉のハンドルから房が掛けてあります。それは、私の大学の卒業のタッセルです。

どこかに私の高校の卒業のタッセルもありますが、少し汚れているので、私の旅行用荷物に掛けてあると思います。

とにかく、普段、そのタッセルを見ると、私は学校時代を思い出します。

時々、悪い思い出もありますが、大体は良い思い出です。よく勉強しましたが、楽しい時期でもありました。

同じように、この箇所で神様はイスラエル人に房を作りなさいと命じられました。けれども、それは学校時代を思い起こすためではありません。

他のことを思い起こすために、その房を作らせたのです。

神様はこのように言われました。

イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。

そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行うため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行い、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。(民数記15:38ー40)

イスラエル人は歩きながら、その房に触れるたびに、いつも「私は神様の聖なるものです。だから、私は神様の命令に従うべきです」と思い出しました。

もちろん、私たちはその房を作る必要はありませんが、神様とその言葉を思い出すために、何か物理的に思い出せるものがあるのは良いことだと思います。

私のコンピュータの上には、小さな紙があります。その紙には「神様は私たちの備え主です」と書いてあります。

以前、誰かが一万円と一緒にその紙を封筒に入れてくれました。私はその紙をコンピュータにつけています。

それを見るたびに、私は思い出します。経済的に辛い状態であっても、神様は私の必要を備えてくださいます。

おそらく、一番良い房は私たちの心につける房でしょう。つまり、聖書の御言葉を暗記することです。

物理的に思い出せるものは、だんだん効果が薄れていくかもしれません。私たちは常に目にするため、次第に見ても気づかなくなります。

しかし、神様の御言葉を私たちの心に結びつけると、神様はその房を用いられます。辛いときに、神様はその御言葉を通して、私たちにご自身のこと、御言葉、そして神様のあわれみを思い出させてくださいます。

子供のころ、私は聖書の御言葉をよく暗記していました。私はもう一度、それをすべきだと思います。

何度も神様はその房を通して私を助けてくださいました。

もしもっと多くの聖書の房を作るなら、神様は将来再びそれを用いて私を助けてくださると信じます。

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反抗的

私は娘の結実ちゃんが大好きです。けれども、結実ちゃんはだんだん反抗することが増えてきました。

いつもではありませんし、そこまでひどいわけでもありませんが、時々こういう会話があります。

私: 「じゃあ、ごはんを食べよう。」 結実: 「たべない!」

妻: 「お風呂に入ろう。」 結実: 「はいらない!」

私: 「ねんねの時間だよ。」 結実: 「ねない!」

普段は結実ちゃんがすぐにその態度を捨てて私たちに従いますが、ときどきとても反抗します。

昨年、大変だったときがありました。

朝ごはんのあと、結実ちゃんはいつも「ごちそうさま」と言いますが、その日は全然言いませんでした。

そのため、「ごちそうさま」と言うまで私たちは椅子から降ろしませんでした。(そのとき、結実ちゃんはベビーチェアに座っていました。)

結実ちゃんは泣いて「いやだ!」と叫びながら、「ごちそうさま」と言うのを拒否し続けました。

一時間ほどかかったと思います。

とにかく、神様はそのような反抗的な態度を大嫌いであることが、この箇所からはっきりわかります。

最初に、イスラエル人は神様が約束された土地に入ることを拒否しました。

そして神様が「もう入ってはならない」と言われた後に、イスラエル人は入ろうとしました。その結果、神様はイスラエル人を罰されました。

その後、民数記15章では、神様がイスラエル人に無意識に罪を犯した場合にどうするべきかを教えられました。

神様はすべての罪を憎まれますが、私たちが時々無意識に罪を犯し、その後でその罪に気づくことがあります。

神様は「その場合、犠牲を捧げれば赦される」と言われました。

しかし、反抗的な態度で故意に罪を犯した場合は、結果が非常に厳しくなります。いけにえを捧げても赦されませんでした。むしろ、その人は民の中から断たれました。

そのため、民数記15章では、あるイスラエル人が安息日を破ったとき、彼は殺されました。

その人は安息日を忘れていたわけではありませんでした。その行動が悪いと十分わかっていながら、意図的に行いました。そのため、彼は殺されました。

私たちは皆罪を犯します。とはいえ、あなたは故意に罪を犯されるでしょうか。

時には、人々はこう言います。「私は罪を犯しますが、その後で神様に「赦してください」と言えば大丈夫だよ。」

それは反抗的な態度です。

ヘブル人への手紙の著者は、そのような人について、このように言っています。

まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。(ヘブル10:29)

もしあなたがクリスチャンであれば、もちろん、神様はあなたを赦されます。しかし、その罪の結果から逃れることはできません。

神様はイスラエル人の反抗的な態度を赦されましたが、神様が約束された土地に入ることは許されませんでした。彼らは自分たちの選択によって、本当に苦しみました。

そのように、私たちが故意に神様に対して反抗的な態度を取れば、必ず後で苦しむことになります。

パウロはこのように書きました。

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。 (ガラテヤ人への手紙6:7-8)

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心を尽くして神様に従う

昔のワーシップソングに、このような歌詞があります。

主よ、私の心をあなたに捧げます。
私の魂をあなたに捧げます。
ただあなただけのために生きます。

私のすべての息のうちに、
私が目覚めている間ずっと、
私の人生で、あなたの御心が成されますように。

教会では、その歌をよく歌いました。そして、多分今でも、多くの歌がその祈りを表現しているでしょう。

けれども、その歌を歌っても、私たちは毎日どれほど神様に心を捧げているでしょうか。

カレブの場合、彼は神様にすべてを捧げました。

たとえ周りが反対意見を言っても、カレブは完全に神様を信頼し、神様に従うことを決心しました。

その結果、ほとんどのイスラエル人が砂漠でさまよい、そこで死んでしまったのに、神様はカレブについてこう言われました。

ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。(民数記14:24)

違った心とは、「神様を信じる。神様が何でもできることを信じる」といった心です。

また、「神様が良い方だから、いつも約束を守ると信じる」といった心です。

そして、「このことを信じているから、何が起こっても神様に従う」といった心でもあります。

そのような態度を取れば、心を尽くして神様に従うことができます。それどころか、神様に従い通すことが簡単なことになります。

しかし、もし疑いがあれば、神様に従い通すことは難しいものになります。さらに、神様に心のすべてを捧げることも難しくなるでしょう。むしろ、神様に対して私たちのすべてを出し惜しみするようになるかもしれません。

例えば、将来の経歴やお金、またはミニストリーさえも、心から喜んで捧げられなくなるでしょう。

私はその戦いをよく知っています。なぜなら、心を尽くして神様に従うことについて葛藤することがあるからです。

出し惜しみをするのは簡単です。けれども、そのようにすれば神様を喜ばせることができません。

ヘブル人への手紙の著者はこう書きました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。

神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(11:6)

神様はあなたの心をどれほど持っておられるでしょうか。

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神様を信頼するのを学ぶ

時々私は自分の小さい信仰が信じられません。

例えばお金に関してです。

神様はいつも私と家族のために備えてくださいましたが、私はいつも心配しています。

お金を貯めるのが簡単だった時は心配していませんでした。けれども、今お金を貯めるのが難しくなったので、いつも心配しています。

なぜでしょう。神様は私のために備えてくださることを約束してくださいましたし、今まで備えてくださいました。それなのに、なぜ神様をもっと信頼できないのでしょうか。

イスラエルの民も同じ疑問に直面しました。

彼らは一年ほど砂漠を旅し、ついに神様が約束された土地に入る準備を始めました。

そのとき、神様はこう言われました。

人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。(民数記13:2)

その人々は帰ってきて、「本当に良かった」と言っていたのです。

けれども、彼らはこう言ったのです。

しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく。。。

私たちはあの民のと ころに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。。。

私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い 者たちだ。。。

私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。(民数記13:28ー33)

その言葉によって、みんなはもうその土地に入りたいと思わなくなってしまいました。

なぜでしょうか。

もちろん、とても難しいことでした。とはいえ、紅海を分けてパロの軍隊を滅ぼすことよりも難しかったでしょうか。

それに、イスラエル人の目の前で神様は何度も素晴らしい奇跡を行われました。

毎日、彼らは雲の柱と火の柱を見て、神様の臨在を感じていました。それなのに、神様に信頼せずに、反抗したのです。

ここから私たちは何を学ぶことができるでしょうか。

一つ目の教訓は、神様を信頼することを学びたいなら、私たち自身や私たちの状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てるべきだということです。

イスラエルの民はそうしませんでした。神様が何をできるかを話すのではなく、カナンの人々とその都市の大きさだけについて語りました。また、自分たちの弱さにばかり目を向けていました。

けれども、ヨシュアとカレブは他のイスラエル人とは違いました。

彼らは自分たちや状況に焦点を当てるのではなく、神様に焦点を当てていたのです。そして、こう言いました。

私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。

もし、私たちがの御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。

あの地には、乳と蜜とが流れている。

ただ、にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。

彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかしが私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(民数記14:7ー9)

2つ目の教訓は、神様に信頼することを拒否する人に耳を傾けるべきではないということです。

イスラエルの民は、神様に信頼するヨシュアとカレブの言葉には聞き従わず、神様に信頼しない人々の言葉を信じてしまいました。

その結果、カナンの土地を偵察に行った人々だけではなく、その偵察隊の意見を信頼した人々も、神様が約束された土地を見ることなく死んでしまいました。

彼らは神様の奇跡を見たにもかかわらず、神様を信頼しなかったからです。

私たちもまた、神様を信頼しない人々に従うならば、最終的には失望し、悲しむことになるでしょう。

最後に、神様が私たちのために何をしてくださったかを心に留めておくべきです。

それを思い出すことで、私たちの信仰は強められるからです。

しかし、忘れてしまうと、私たちの信仰は失われてしまいます。

イスラエルの民は10回も神様を試しました。その10回すべてで、神様はご自身が忠実であることを示されました。

それにもかかわらず、イスラエル人はそれを忘れてしまったのです。

神様の言葉は今も私の心の中で響いています。

この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行ったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。(民数記14:11)

神様、私がイスラエルの民のようにならないように。

彼らはあなたに信頼しなかったため、あなたの約束された祝福を受け取ることができませんでした。

あなたはいつも私に忠実です。それなのに、イスラエル人のように、私の信仰は揺らぐことがあります。

どうか、私が自分の弱さや状況に焦点を当てないようにしてください。むしろ、私があなたに、そしてあなたのいつくしみに焦点を当てることができますように。

私があなたの御業を絶えず思い起こし続けることができるように助けてください。

これまであなたが私を助けてくださったこと、そして未来においても助けてくださることを信じます。どうか私があなたを信頼できるように導いてください。アーメン。