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民数紀

清められた

民数紀19章

私は旧約聖書の時代に生きていなくて良かったと思います。宗教的な儀式が数多くあるので、きっと私は混乱してしまうでしょう。

しかし、神様はその儀式を通して、神様がどのような方であるか、私たちが誰であるか、そして神様が私たちにどのような人になってほしいかを示されました。

この箇所で、神様は清める儀式を通して、罪について教えられ、また私たちと神様との関係についても教えられています。

一つ目は、罪を無視することができないということです。

誰かが儀式的に汚れると、水で清めを行わなければなりませんでした。その儀式的な洗いを無視してはなりませんでした。

もし、その儀式を無視すると、集会から断ち切られることになりました。

なぜでしょうか。それは、自分を清めないと神様の聖所を汚してしまうからです。(民数紀19:13、20節)

同じように、私たちが人生の中で罪を持ち続けると、神様の宮、つまり私たちの体を汚してしまいます。

私たちがクリスチャンになった時から、聖霊が私たちの内に住み始めました。ですから、私たちの体は神様の聖所です。

もし私たちの心の中に罪があれば、その心を清めなければなりません。その罪を無視してはならないのです。

そのため、すべての人が天国に行けるわけではありません。清められていない罪深い人たちが天国に入ると、天国の聖所を汚してしまいます。

神様はそれを許されないので、そのような人たちは神様から断ち切られることになります。

二つ目は、清い人だけが汚れた人を清めることができたということです。(18–19節)

そのように、イエス様だけが私たちを罪から清めることができます。それは、イエス様だけが完全に清い方だからです。イエス様は決して罪を犯されませんでした。

興味深いのは、人を清める水を作るために、雌牛の灰が必要とされたという点です。しかし、その灰を作る人は、その行いによって汚れることになりました。

同じように、イエス様も一時的に汚れることになられました。つまり、イエス様が十字架で死なれた時、全世界の罪がイエス様の上に置かれました。

第二コリント5:21には、このように書かれています。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

三つ目は、清めることをしない言い訳がなかったということです。なぜなら、清められる方法は本当に簡単なものでした。その水が必要であれば、誰でも受け取ることができたからです。

ですから、もし誰かが清めをせず、そのために集会から断ち切られることになったなら、それはその人自身の責任です。

同じように、もし誰かが神様の救いを拒絶し、地獄に行くことになったなら、それはその人自身の責任です。

救われることは決して難しいことではありません。イエス・キリストの御名を呼び求めれば、すぐに来て、あなたを救ってくださいます。

ローマ書10:13には、このように書かれています。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。

救いは本当に簡単なことです。そのため、誰も言い訳をすることはできません。

イエス・キリストを拒絶する人には、神様の怒りしかありません。そして、その人は永遠に神様から断ち切られることになります。

あなたはどうでしょうか。あなたの罪は清められていますか。あなたは赦されていますか。

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