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民数紀

なだめの香り

民数記28ー29章

民数記28~29章では、イスラエル人が捧げる犠牲についての具体的な説明が書かれています。

ただし、ここではその犠牲について詳しく書きません。なぜなら、すでに出エジプト記とレビ記のブログで説明しているからです。

けれども、この箇所で一つのフレーズが心に残りました。そのフレーズは何度も繰り返されているのです。

つまり、「主へのなだめの香りでした」という言葉です。

それと同じように、イエス様が私たちのために十字架で命を捧げられたとき、その犠牲も神様へのなだめの香りでした。それは神様の目において正義を満たし、私たちに永遠の命を与えてくださったのです。

そして、今では神様は私たち自身が神様へのなだめの香りであると言われます。

第二コリント2章15~16節にはこのように書かれています。

私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。

神様が私たちを見るとき、キリストの香りを嗅がれます。

そして、私たちがこの世界に出ていくとき、イエス様の香りを広げるべきなのです。

第二コリント2章14節には、このように書かれています。

しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

16節に書かれているのは、ある人たちにとって私たちが「いのちから出ていのちに至らせる香り」であるということです。つまり、彼らが私たちの中にキリストを見るとき、イエス様に近づきたいと願うのです。

けれども、ある人たちにとっては、私たちは「死から出て死に至らせる香り」です。

なぜなら、キリストを拒絶する人々にとって、私たちは死と裁きが近づいていることを思い出させる存在だからです。そして誰も、そのことを思い出したいとは思わないのです。

もし、私たちがキリストの香りを広げないなら、それは本当に悪いことです。

私たちが神様に自分の体を生きた供え物として捧げないなら、私たちは本当に生きているとは言えません。ただ存在しているだけです。

しかし、神様はそれを望んでおられません。神様は、私たちが自分自身を神様に捧げ、キリストを知る知識の香りを広げることを望んでおられるのです。

あなたからはどんな香りが匂うでしょうか。

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