時々、私は聖書を読むとき、何が神様の完全な意志で、何が神様の寛容な意志なのかを考えます。
神様の完全な意志とは、神様が望まれる通りにすべてが起こることを指します。
一方で、神様の寛容な意志とは、神様が何かを許されるものの、それが神様にとって喜ばしいことではない場合を指します。
例えば、アダムとエバの罪について考えてみましょう。
神様の完全な意志は、彼らが自由意志を持つことでした。けれども、その完全な意志の中には神様の寛容な意志も見られます。
つまり、神様は彼らに自由意志を与えたことによって、彼らが自分の道を選ぶ可能性を許されたのです。
彼らが罪を犯したとき、神様は喜ばれたでしょうか?いいえ、そうではありません。しかし、それを許されたのです。
このように、神様がアダムとエバに自由意志を持つことを望まれた結果、彼らは罪に陥りました。
神様の完全な御心は、彼らが神様に従うことでした。 一方で、神様の寛容な御心は、彼らが神様に従わないことを許されたのです。
時には、神様の完全な意志と寛容な意志が明確に区別できる場合もあります。アダムとエバの場合がその一例です。
けれども、他のケースでは、必ずしも明確ではないことがあります。
例えば、ガド族、ルベン族、ヨセフの子マナセの半部族が約束の地に住まず、別の土地に住むことを選んだとき、それは神様の完全な意志だったのでしょうか?
それとも神様の寛容な意志だったのでしょうか?
モーセはこう語りました。
もしあなたがたがそのようにし、もし主の前に戦いのため武装をし、あなたがたがのうちの武装をした者がみな、主の前でヨルダンを渡り、ついに主がその敵を御前から追い払い、その地が主の前に征服され、その後あなたがたが帰って来るのであれば、あなたがたは主に対しても、イスラエルに対しても責任が解除される。
そして、この地は主の前であなたがたの所有地となる。(民数域32:20ー22)
でも、それは神様の完全な意志だったのでしょうか。
私の意見では、多分そうではありません。
ガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族が神様が約束された土地に住まなかったことで、彼らは神様の祝福を失ったのでしょうか。
正直に言えば、それは分かりません。何を失ったのか考えるのは難しいです。彼らは幸せだったかもしれません。
でも、もし彼らが神様が約束された土地に住んでいたなら、さらに幸せだったのではないでしょうか。
私たちはどれほど次善に甘んじているのでしょうか。そして、どれほど私たちが持っているものに満足し、それゆえ神様からのより素晴らしいものを断ってしまったのでしょうか。
神様は許してくださるかもしれません。とはいえ、その結果、神様が注ぎたかった祝福を失う可能性もあります。
時々、私たちは神様のタイミングを待ちたくないために次善に甘んじてしまいます。
また、私たちが居心地の良さにとらわれたり、神様の最高の計画を知らなかったりして、次善に甘んじてしまうこともあります。
おそらくガド族、ルベン族、そしてヨセフの子マナセの半部族もそうだったのではないでしょうか。
彼らは神様が約束された土地を待つのを望まず、その土地の祝福を知らなかったのです。
多分、私が次善に甘んじる理由は、神様のタイミングを待ちたくないからではなく、今の状態に満足してしまっているからです。
もし、あなたが神様の御心に従っているのであれば、満足すること自体は悪いことではありません。
しかし、もしその満足が、神様があなたのために望んでおられる場所や目的に対する障害となるなら、それは良くないことです。
私は今、自分自身に問いかけています。私は今、神様が望んでおられる場所にいるのでしょうか。
それとも、次善に甘んじているだけなのでしょうか。
