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民数紀

命の価値

民数記35章

「私は殺人を認めません。」

それはアガサ・クリスティの本に登場する探偵、エルキュール・ポアロの有名な信条です。

神様も同じ意見をもっておられます。だからこそ、この箇所では殺人について多くの命令が記されています。

つまり、故意に誰かを殺した場合にどうすべきか、また偶然に殺してしまった場合にどうすべきかが教えられています。

その後で、神様はこう言われました。

あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。(民数記35:33)

日本人については分かりませんが、時々、アメリカ人は殺人に対して少し鈍感になることがあります。

最近、アメリカでたくさんの子供が殺された事件があったため、アメリカの人々は大きなショックを受けました。

けれども、普段、殺人のニュースを聞いても特にショックを受けないことが多いです。毎日どこかで殺人が起こっているからです。

しかし、神様にとっては、その血が土地を汚してしまいます。

なぜでしょうか。それは多分、人が他人を殺すということが、命の価値を蔑視する行為だからではないでしょうか。そして、殺人を犯した人はすぐに命の価値が全く分からなくなってしまうのです。

とはいえ、殺人はもっと長いプロセスの最後の段階にすぎません。

そのプロセスの始まりは、私たちが命の価値を尊重しなくなることです。

私たちは他人を見下し、憎むようになります。そして、たとえその人の身体を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺してしまうのです。

だから、イエス様はこう言われました。

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがた は聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。

兄弟に向かって『能な し』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。

また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。(マタイ5:21ー22)

私たちは人を憎むとき、その憎しみによって土地を汚してしまいます。なぜなら、本当にその人を殺さなくても、私たちの心の中でその人を殺しているからです。

ヨハネはこう語りました。

兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。(第一ヨハネ3:15)

一方で、イエス様はどのような方でしたか。

ヨハネは続けてこう言いました。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(第一ヨハネ3:16a)

イエス様は私たちを大切にしておられたので、ご自分の命を十字架でお捨てになったのです。命を滅ぼすことはなさらず、むしろ命を捧げられたのです。

そして、イエス様の死によって、私たちは永遠の命を受けることができるのです。

では、あなたはどうでしょうか。命を大切にしていますか。

それは言葉だけではなく、行動によっても命を大切にすることです。

それは具体的にどのようなことでしょうか。

ヨハネはこう言いました。

ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(第一ヨハネ3:16b)

イエス様がご自分の命を私たちのためにお捨てになったように、あなたも他の人のために命を捧げることができるでしょうか。

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