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民数紀

神様の御心

民数記36章

何年か前、神様の御心についてのメッセージを聞きました。

その牧師が話していたのは、神様の御心を的の中心のように考える人たちがいるということでした。つまり、ターゲットの真ん中に当たらないと、神様の御心を逃したと考えるのです。

しかし、神様の御心はそのようなものではありません。むしろ、神様の御心は塀に囲まれた庭のようなものです。

その庭の中で私たちは自由に選択できます。塀の外に出てしまえば神様の御心を逃してしまいますが、その庭の中、つまり神様の御心の中ではさまざまな選択が許されています。

例えば結婚についてです。多くの人々は次のように考えます。

「神様は私のためにたった一人の相手を選んでおられる。だから、その人を見つけなければならない。」

けれども、この考え方は間違っています。神様の御心の中であれば、いろいろな人の中から選んでも構いません。

ただし、その塀の中、つまり神様の御心の中で選ばなければなりません。

民数記36章では、神様はツェロフハデの娘たちに塀を与えられました。

マナセの部族はツェロフハデの娘たちについて心配していました。その娘たちの父親が亡くなり、兄弟がいなかったため、彼女たちは父親の土地を受け継ぎました。

けれども、もし娘たちが他の部族の男性と結婚すれば、マナセ部族の相続地が小さくなってしまうという問題がありました。

そこで神様は次のように命じられました。

彼女たちは、その心にかなう人にとついでもよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族にとつがなければならない。(民数記36:6)

この箇所で、神様の御心が見えます。塀が設けられていました。つまり、その娘たちは父の部族に属する氏族に嫁がなければならなかったのです。

しかし、その塀の中では自由がありました。つまり、彼女たちは自分の心にかなう人に嫁ぐことが許されていました。

私たちのクリスチャン生活も同じです。もちろん結婚についてもそうですが、他のことでも同じです。

超えてはならない塀があります。例えば、結婚に関する神様の命令です。「クリスチャンはクリスチャンと結婚しなければならない。」

けれども、その塀の中であれば、誰と結婚してもよいです。

それは、神様が選ばれたただ一人と必ず結婚しなければならない、ということではありません。

時々、私たちは的に当てるかどうかを心配しすぎて、何かをするのを恐れるあまり、結局何もしないことがあります。

でも、それはよくありません。

神様の御心の中では、私たちには自由があります。そのことを心に留めてください。

結婚でも、仕事でも、どのような事柄でも同じです。まず、塀に囲まれている庭がどこにあるのかを知らなければなりません。その中で生きるべきなのです。

そしてその中にいる限り、神様の御心にかなっているかどうかを心配しすぎないでください。きっと大丈夫です。

もし神様があなたのために別の計画を持っておられるなら、つまりもっと具体的な的があるなら、神様が必ず知らせてくださいます。

ですから、的を外すことへの恐れに惑わされず、ためらわずに行動しましょう。

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