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申命記

神様の言葉に付け加えず、神様の言葉を取り除かない

申命記4章

ハワイにいた時、私は子供のミニストリーに参加していました。それは本当に楽しいものでした。けれども、最終的には燃え尽きるように感じてしまいました。

少し大変だったので、一度休憩を取り、その後リフレッシュされて、また大丈夫になりました。ところが翌年、再び疲れるようになり、休憩をとってもリフレッシュできませんでした。

それでも、ミニストリーを辞めることを考えると、私は罪悪感を覚えました。

子供たちのために責任を感じていましたし、私の代わりにミニストリーを担う人がいるのかと心配していました。

しかし、最終的には辞めなければならなかったのです。

その時、私は大切なことを学びました。それは、神様の御心に関して、神様の言葉に何かを付け加えることも、神様の言葉から何かを取り除くこともしてはいけない、ということです。

神様は私が日本に引っ越すことを望んでおられたので、子供のミニストリーに対する召しは終わっていました。

けれども、私は日本に行きたくありませんでした。その上、神様が私に子供のミニストリーを続けるための恵みを与えておられなかったのに、私はそれを続けてしまいました。

その結果、私は燃え尽きてしまいました。

この聖書の箇所を読んだ時、その経験を思い出しました。

神様はイスラエルの民にこう言われました。

私があなたがたに命じることばに、つけ加えてはならない。また、減らしてはならない。

私があなたがたに命じる、あなたがたの神、の命令を、守らなければならない。(2節)

この箇所で、モーセは神様からの律法について語りました。しかし、クリスチャンにとっても、その原則は同じです。

もし神様の命令に従わなければ、それは不服従になります。例えば、私が日本に行くという神様の召しを拒絶した時、それは不服従でした。

また、神様が命令された以上に何かをすることも良くありません。そうすれば、神様が私たちに負わせたくない重荷を、自ら負うことになってしまいます。

例えば、神様が私を子供のミニストリーに召された時、それは私にとって全く重荷ではありませんでした。本当に楽しいものでした。

けれども、その召しが終わった後も、私はそのミニストリーを続けてしまいました。その結果、それは負い切れない重荷になってしまったのです。

これはミニストリーに限らず、どの神様の命令にも当てはまる原則です。

例えば、パリサイ人と律法学者たちは、神様の律法に命じられていないことを付け加えました。その教えによって、彼らはイスラエルの民に重荷を負わせたのです。

その重荷は負い切れないものでしたし、神様もそれを望んではおられませんでした。

だからこそ、イエス様はパリサイ人と律法学者たちにこう言われました。

律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。 (ルカ11:46)

あなたはどうでしょうか。

あなたの人生で、神様の言葉から何かを取り除いてしまうことはありませんか。また、神様の命令に従わないことはありませんか。

それがもし当てはまるならば、それは罪を犯していることです。そして、悔い改め、神様の言葉に従い始めるべきです。

あなたは、神様の言葉に付け加えていることはないでしょうか。神様が求めておられる以上のことを、自分で進んでしてはいないでしょうか。

それをしてしまうと、燃え尽きてしまうかもしれません。なぜなら、あなたは神様が与えていない重荷を自分で負っているからです。

神様の言葉を取り除かないようにしましょう。

そして、神様の言葉に付け加えることもしないようにしましょう。むしろ、神様が命じた通りに生きるようにしましょう。

そうするならば、神様があなたのために計画された人生と、その中にある喜びを見つけることができるでしょう。

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