カテゴリー
申命記

とりなし

申命記9章

以前、私は「もし私がモーセなら、イスラエルの民を導くことに耐えられないだろう」と言いました。

おそらく、多くの牧師たちは、人々を導くことがどれほど難しいかを理解しているため、モーセに同情するでしょう。

モーセは時々腹を立てました。時には本当にイライラさせられることもありました。

それでも、モーセはイスラエルの民への愛を決して失うことはありませんでした。

何度も何度も、イスラエルの民が罪を犯した時に、モーセは彼らのために祈りました。

何度も何度も、神様が彼らを裁くと決められた時に、モーセは神様とイスラエルの民の間に立ち、神様の恵みとあわれみを求めて祈りました。

もちろん、クリスチャンのリーダーたちには、このような心が必要です。

けれども、すべてのクリスチャンも、周りの人々に対してこのような心を持つべきです。

時には、人々が私たちをいら立たせることがあります。

時には、人々が私たちを怒らせることがあります。

時には、人々が私たちを傷つけることがあります。

そして、「神様、どうか彼らを裁いてください。彼らが受けるべき罰を与えてください。私はもう耐えられません」と祈るのは簡単なことです。

しかし、モーセが値しない人々のために祈ったように、私たちも同じことをするべきです。

多くの場合、問題の根本は、相手の霊的な目が見えないことにあります。サタンが彼らの思いをくらませることもありますし、多くの場合、人々自身が自分の思いをくらませていることもあります。

その結果、彼らは私たちをイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりします。

もちろん、彼らは神様の裁きを受けるに値します。

けれども、私たちも神様の裁きを受けるに値します。そして、私たちが神様をイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりする時には、神様のあわれみを求めます。

同じように、私たちは他の人々のためにも神様のあわれみを求めるべきです。

神様が彼らの霊的な目を開かせてくださるよう祈るべきです。そして、彼らが悔い改め、神様が彼らを赦し、癒してくださるよう祈るべきです。

それは決して簡単なことではありません。

けれども、イエス様はまさにそのようなお方でした。

9年ほど前に「パッション」という映画を見ました。

その中の一つのシーンが印象深く残っています。イエス様が十字架にかけられた時、山上の垂訓のフラッシュバックがありました。その時、イエス様はこう言われました。

「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。

自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43ー45)

十字架の上で、イエス様はご自身の言葉に従われました。イエス様を迫害し、殺そうとしている人々のために祈られたのです。

あなたはどうでしょうか。あなたを怒らせる人のために祈ることができますか。

あなたをイライラさせる人のために祈ることができますか。

あなたを傷つける人のために祈ることができますか。

彼らに対して、神様のあわれみを求めて祈ることができますか。

コメントを残す