以前、私は「もし私がモーセなら、イスラエルの民を導くことに耐えられないだろう」と言いました。
おそらく、多くの牧師たちは、人々を導くことがどれほど難しいかを理解しているため、モーセに同情するでしょう。
モーセは時々腹を立てました。時には本当にイライラさせられることもありました。
それでも、モーセはイスラエルの民への愛を決して失うことはありませんでした。
何度も何度も、イスラエルの民が罪を犯した時に、モーセは彼らのために祈りました。
何度も何度も、神様が彼らを裁くと決められた時に、モーセは神様とイスラエルの民の間に立ち、神様の恵みとあわれみを求めて祈りました。
もちろん、クリスチャンのリーダーたちには、このような心が必要です。
けれども、すべてのクリスチャンも、周りの人々に対してこのような心を持つべきです。
時には、人々が私たちをいら立たせることがあります。
時には、人々が私たちを怒らせることがあります。
時には、人々が私たちを傷つけることがあります。
そして、「神様、どうか彼らを裁いてください。彼らが受けるべき罰を与えてください。私はもう耐えられません」と祈るのは簡単なことです。
しかし、モーセが値しない人々のために祈ったように、私たちも同じことをするべきです。
多くの場合、問題の根本は、相手の霊的な目が見えないことにあります。サタンが彼らの思いをくらませることもありますし、多くの場合、人々自身が自分の思いをくらませていることもあります。
その結果、彼らは私たちをイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりします。
もちろん、彼らは神様の裁きを受けるに値します。
けれども、私たちも神様の裁きを受けるに値します。そして、私たちが神様をイライラさせたり、怒らせたり、傷つけたりする時には、神様のあわれみを求めます。
同じように、私たちは他の人々のためにも神様のあわれみを求めるべきです。
神様が彼らの霊的な目を開かせてくださるよう祈るべきです。そして、彼らが悔い改め、神様が彼らを赦し、癒してくださるよう祈るべきです。
それは決して簡単なことではありません。
けれども、イエス様はまさにそのようなお方でした。
9年ほど前に「パッション」という映画を見ました。
その中の一つのシーンが印象深く残っています。イエス様が十字架にかけられた時、山上の垂訓のフラッシュバックがありました。その時、イエス様はこう言われました。
「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。(マタイ5:43ー45)
十字架の上で、イエス様はご自身の言葉に従われました。イエス様を迫害し、殺そうとしている人々のために祈られたのです。
あなたはどうでしょうか。あなたを怒らせる人のために祈ることができますか。
あなたをイライラさせる人のために祈ることができますか。
あなたを傷つける人のために祈ることができますか。
彼らに対して、神様のあわれみを求めて祈ることができますか。
