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申命記

復讐か正義?

申命記19章

ウサマ・ビン・ラディンが殺されたときに、私は全く泣きませんでした。

実は、彼が亡くなって嬉しく思いました。彼がもういなくなって、この世界はさらに安全になったと考えます。

それでも、ビン・ラディンを殺す方法に対して、私の感情は少し複雑です。私はアメリカが正義のために彼を殺したのか、復讐のために殺したのか分かりません。

ビン・ラディンは軍事目標でしょうか。そうだと考えます。アメリカを攻撃することを計画した時に、ビン・ラディンは軍事目標となりました。

ビン・ラディンを殺さずに、家で捕らえて、裁判官の前に連れて来ることはできなかったでしょうか。

私には分かりません。私には全ての情報がないからです。

「それは正義だ」と言う人もいれば、「それは復讐だ」と言う人もいます。

時々、その境界線は分かりにくいものです。

けれども、この箇所で、神様は原則を与えられます。

神様の律法によれば、もし、誰かが偶然に他の人を殺した場合、特別な都市に行けば安全でした。つまり、殺された人の家族などが、その人を殺してはならなかったのです。

この律法によって、神様は正義の名のもとに、人が他の人を殺すことを阻んでくださいました。

時々、私たちは怒るときに、何が正義か分からなくなることがあります。だからこそ、冷静になるための時間が必要です。その都市は、人々にその時間を与えました。

復讐したい人たちは、その人が意図的に殺人を犯したのではなく、死に値しないことを理解することができるのです。

しかし、神様はさらにもう一つの原則を与えられます。神様は言われました。

いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。(申命記19:21)

つまり、罰は犯した罪と同等であるべきです。

例えば、誰かがあなたを少しだけ怪我させた場合、その人を殺してはなりません。その人を殺すと、それは正義ではありません。それは復讐です。

本当の正義によって裁くなら、犯した罪に対して相応の罰を与えられるはずです。

多分、ビン・ラディンの死はその二つの原則と一致していました。彼は意図的に人々を殺しました。偶然ではありませんでした。だから、彼は犯した罪に対して相応の報いを受けたのです。

とはいえ、もっと良い方法があったのでしょうか。私には分かりません。

けれども、心に留めておきましょう。いつか、神様はその行動を裁かれるのです。

自分の行動が復讐か正義かを考えるとき、そのことを忘れてはなりません。

私たちは皆、神様のみ前で自分のことを申し開きすることになるのです。(ローマ14:12)

そして、神様はあなたを裁かれます。だから、行動する前に、私たちは裁きの日に神様に何を申し上げるか考えなくてはならないのです。

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