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申命記

でも、それは私の責任じゃないよ

申命記22:1ー4

「でも、それは私の責任ではありません。」

それは昔からの言い訳です。

カインもそのような言い訳を使いました。神様がカインに、「あなたの弟アベルはどこでしょうか」と尋ねられたとき、カインは答えました。

知りません。私は、自分の弟の番人なのでしょうか。(創世記4:9)

けれども、神様はその答えを認められませんでした。なぜならば、カインはアベルのために責任があったのに、アベルを殺したからです。

この箇所で、神様は私たちがお互いに対する責任を持っていると教えておられます。

神様はこう言われました。

あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたは同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。

もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。

彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。

すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。

あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。(申命記22:1-4)

私たちの兄弟たちと姉妹たちが助けを必要としているとき、神様は「それは私の責任ではありません」という言い訳を許されません。

神様はそれを私たちの責任とされます。

この箇所で、神様は私たちが周りの人々の持ち物を世話しなくてはならないと命じられました。しかし、そうであるならば、その人々自身も世話すべきではないでしょうか。

ルカ10章で、イエス様の例え話で、サマリヤ人はその態度を取りました。彼は隣人の必要を見たとき、その人を助けたのです。

どうして神様はそのように命じられたのでしょうか。それは、神様が私たちのためにそのようにしてくださったからです。

少し想像してみてください。私たちは罪に溺れ、希望を失い、地獄への道を歩んでいるとします。それを見て、もしイエス様が「それは私の責任ではない」と言われたとしたらどうでしょうか。

けれども、イエス様はそのようには言われませんでした。むしろ、イエス様はご自身を低くされ、天国を出て人間となられ、値しない私たちのために死んでくださいました。

イエス様が私たちのためにそのようにしてくださったなら、私たちはそのようにするべきではないでしょうか。

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