この箇所はとても興味深いです。
この箇所は結婚と離婚についてです。パリサイ人たちはこの箇所を根拠に、妻を離婚することが許されると考えていました。
議論の中心は、「何が恥ずべきことか」という点でした。
私は離婚についてあまり話しませんが、イエス様の言葉を引用します。それは、神様は決して離婚を命令されなかったということです。
しかし、人々の心が固かったため、神様は離婚を許されたのです。
つまり、人々はまず神様に対して心を固め、さらに神様の結婚についての教えに対しても心を固めました。そして、夫と妻は互いに対して心を固め合ってしまいます。
けれども、私にとって一番興味深いのは5節です。神様はこのように言われました。
人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。
彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。(申命記24:5)
神様は結婚の最初の年の大切さをよくご存じでした。
それゆえ、結婚が良い始まりを持つことを望んでおられたのです。
その最後のフレーズが大好きです。「自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」
このフレーズから、私たちは健康的な結婚の鍵を見つけることができます。それは、夫婦がお互いを喜ばせ合おうとする心です。
多くの場合、夫や妻は相手に焦点を当てず、自分自身にばかり焦点を当ててしまいます。その結果、結婚がうまくいかなくなってしまうのです。
相手を喜ばせることなく、相手が自分を喜ばせてくれないことに文句を言うのです。
第1節において、そのような態度が離婚の原因となりました。
人が妻をめとり夫となり、妻に何か恥ずべき事を発見したため、気に入らなくなり。。。
パリサイ人たちにとって、「恥ずべき」ということは、姦淫のことだけを指しているのではありませんでした。料理が上手くない、声が大きすぎる、あるいは以前より美人ではなくなった、ということまで含まれていたのです。
その人のフォーカスはどこにあるのでしょうか。妻を喜ばせることでしょうか。
違います。むしろ、彼のフォーカスは、「私の妻が私を喜ばせてくれない」という自己中心的な考え方です。
そのような態度によって、彼らは妻を離婚しようとしたのです。
ここで、大切なポイントをお伝えしたいと思います。神様は特に夫に、健康的な結婚を守る責任を与えられました。神様は夫に、妻を喜ばせるべきだと命じられました。
では、なぜ神様は夫たちにその命令を与えられたのでしょうか。それは、神様が女性をよく知っておられるからです。神様は女性を応答者として造られたのです。そして、夫が妻を喜ばせると、妻もまた夫を喜ばせようとするのです。
しかし、妻たちがそれに気づかず、また夫が自分自身の幸せにばかり焦点を当てているのを見たら、妻たちは文句を言い始めます。
その結果、夫たちはイライラし、さらに自己中心的になり、愛がますます冷めてしまいます。
結局、その結婚は徐々に悪化し、最終的には離婚に至ることになります。
その一方、もし誰かがこの悪循環を断ち切り、自己中心的な考えを捨てて、相手を喜ばせようとする態度を取ったら、その結婚を守ることができるのです。
もちろん、結婚を守るためには、夫と妻が共に努力しなければなりません。
そして、妻たちも夫を喜ばせる責任があります。また、たとえ夫が妻を喜ばせようとしなくても、妻にはこの悪いサイクルを止める責任があるのです。
けれども、神様は特に夫に、その責任を与えられました。
だからこそ、パウロは夫たちにこの命令を書いたのです。
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5:25)
キリストは一番最高の夫でした。イエス様は自分自身のことだけを考えずに、教会、つまり私たちのために、すべてを捧げられました。
パウロはこう記しました。
キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた。。。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5:25ー27)
夫たち、あなたの結婚に不満がありますか。自分自身に焦点を当てるのをやめましょう。妻に焦点を当て始めてください。自分の幸せではなく、妻の幸せに焦点を当ててください。
そうすれば、あなたの結婚は徐々に良くなり、神様があなたに望んでおられる結婚になるでしょう。
