神様はイスラエル人の性格に関して、ご自身をごまかしてはおられませんでした。彼らの不誠実な性格をよく覚えておられ、将来においても彼らが不誠実になることをご存知でした。
だから、神様はモーセに歌を書きなさいと命じられました。なぜならば、イスラエル人が神様に背を向けて苦しい状況に陥った時、その理由が分かるためです。
その歌は、イスラエル人に対する神様の慈しみと、彼らの不誠実さについて書かれたものでした。この歌は、イスラエル人を警告するためのものでした。
しかし同時に、イスラエル人に希望を与えるためでもあります。
神様はこう言われました。
今、見よ。わたしこそ、それなのだ。
わたしのほかに神はいない。わたしは殺し、また生かす。
わたしは傷つけ、またいやす。
わたしの手から救い出せる者はいない。(申命記32:39)
けれども、一番印象に残っている言葉は46-47節です。モーセはこう言いました。
あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。(申命記32:46-47)
つまり、「注意しなさい。この言葉に従えば、命を得ることができます。」
神様は私たちに同じことを語られます。
それは書かれた言葉だけではなく、生きている言葉についてもです。
「生きている言葉」というのはイエス様のことです。
イエス様は神様の本質の完全な現れです。イエス様はこの世に来られ、神様の性格を示し、私たちがどのように神様を喜ばせるか教えてくださいました。
そして、イエス様は十字架で私たちの罪のために死んでくださいました。
私たちにとって、イエス様の人生の話はむなしいものではありません。そのように考えてはいけません。
イエス様を信じれば、イエス様は私たちに命を与えてくださるからです。
ヨハネはこう記しました。
ことば「つまり、イエス様」は人となって、私たちの間に住まわれた。(ヨハネ 1:14)
また、
しかし、「イエス様」を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。(ヨハネ 1:12)
だから、イエス様をむなしい言葉として考えるのをやめましょう。
イエス様を無視する言葉として見なしてはいけません。
むしろ、あなたの命をイエス様に捧げてください。
そうすれば、イエス様は命を与えてくださいます。
